共産主義も国粋主義もどちらもお断り



私が共産主義に疑念を抱いたのは、少年時代だった。テレビで浅間山荘事件を見て、そこに言い表せない禍々しさを感じていた。この疑念が反発に代わるのにさほどの時間はかからなかった。やがてソルゼニーツインを読み、その後カンボジアポルポト)、中国、ソ連でなされてきた怖ろしい虐殺と人権侵害を知り、チャウシェスクに同地の伝説の吸血鬼の面影を見た。
彼らはみな、「人民のため」と称していたが、人民を痛めつけ、奪い取り、殺していた。「人民のため」は一種の切り札のように作用して、「人民のため」と言えば多くの事が正当化されてしまうのだ。
そういう点で、日本の右翼(保守)と同じである。右翼は「人民のため」という言葉の代わりに「天皇」という切り札を持っていて、「天皇のため」と言えばたいていのことは免罪される。もちろんこの「天皇のため」は「お国のため」という言い方になることもある。帝国憲法での主権者は天皇だからだ。
救いようもないほど倒錯し、凶悪な殺人を犯した人物でさえ、愛国と見なされ罪を軽くする嘆願がなされるほどである。実際に自称愛国者たちはしばしば堀の中に入れられているが、すぐに出てきたりする。左翼・共産主義者(とみなされたもの)とはまるで違うのだ。昔の軍隊では上官を天皇と見るように指導したというが、それは上官への絶対服従をさせるためだ。こうした精神風土だから「天皇のために」が自己正当化の道具となりうるのである。それは一個の偶像崇拝であり、偶像とは怖いものだ。
「人民」という言葉を偶像化しようと御簾の影に隠れる「天皇」を偶像化しようとあまり違いは無いように思える。どちらも人間を痛めつけるために使われるし、さらにはテロを引き起こしてしまう。共産主義者は世界を股にかけてテロを引き起こしたが、国粋主義者は我が国でのみ暴れまわり、標的を苦しめる。