朝鮮史・・・白丁の解放
日本の右よりな人々の中には、「日本が韓国を統治したから身分差別がなくなった」という者がいる。
しかし残念ながら、かなりのデタラメである。
だいたい、白丁差別解放運動が起こった時代には、日本国内でも水平社運動が起こったが、どちらも日本の政府はほとんど関係なく民間の人々が奮闘努力した。
李氏朝鮮は、儒教の考えに基づく身分制度が存在していた。日本では武士ーつまり武力を持った者が力づくで支配したが、朝鮮半島では文官である両班を最高位としていた。だが朝鮮半島の身分制度を日本と同じように考えることはできない。例えば仏教の僧侶は最下層の7賎の一つとされていたが、仏僧に帰依していた人々もいたからである。
【身分制度開放の歴史】
もう一つの特徴として奴婢制度の改革が挙げられる。李氏朝鮮初期、奴婢は主人に納める身貢の負担と身分制の重圧に苦しんでいたが、(秀吉による)日本侵略の際に民族的抵抗の一翼を担ったこともあって、戦後には身分解放(免賎)の動きが進んだ。主人に穀物などを納める納粟や戦争であげた軍功などの契機を利用して、良民身分へ上昇したほか、身貢の負担を避けて逃亡する者も多く、奴婢の数は減少した。
1669年にはじめて実施された『奴良妻所生従母役法』は、それまで親のいずれか一方が奴婢であれば子は奴婢身分になると規定した制度を改めて、良民の女を母とすれば奴の子も良民身分に上昇できる機会を与えた。
・・・完全に定着するようになったのは、1731年の事であった。こうしてこの立法にも促進されて、奴婢は一層減少して行った。
1755年には、官奴婢の身貢が軽減された。
そして70年には婢の身貢は全廃されるに至った。( 『朝鮮史ー』 P178、179)
【庶民作家とハングルの庶民への普及】
文学も発達し、はじめは金万重のような両班の作家であったが、次第に下級階層の作家が増えた。書堂の普及により、庶民に識字率が増大した事もあって、なお封建道徳に束縛されてはいても、身分的差別への批判、率直な感情や大胆な愛情表現に富んだハングル小説が庶民の間に多くの読者を獲得していった。(『朝鮮史ー』P186)
19世紀初頭、世道政治や三政の弊により、国家財政の破綻が慢性化すると、農民と両班のそれぞれで階層化が進んだ。
この時代、庶民地主が登場した。良民から両班になるものも多くいた。
この時代、農民への収奪は激しくなり、小作料も規定をはるかに超え、3分の1から半分に増えた例もあった。(4分の1規定)
これに伴い身分制度も大きく変化して行った。1801年には、王室・宮家や中央官庁に属する奴婢が多く解放され、奴婢制度解体の動きは最後の段階に入った。
19Cの著作として重要なのは、崔漢綺(チェハンギ)の『人政』(1860年)などがある。
やがて1860年、崔済愚によって創始した東学は、「人はすなわち天なり」の平等思想や「後天開闢」という地上天国の出現を願望する思想に特徴づけられる。大院君によって迫害されたが、やがて広まって行った。
【高宗と甲午改革】
こうした過程を経て、やがて高宗は、白丁出身の吉泳朱や洪泰潤を高い官職につけた。
【衡平社の活動】
その後、日本が支配する時代となったが、白丁差別解放は20年代衡平社が推進した。全国に12の支社と67の分社が組織された。
この運動の発端は、李学賛という白丁の金持ちがいて、なんとか子供を普通学校(小学校)に入れようとして断られ、さらに日新普通学校建設の賦役の通達が来て、学校を造ったのに入学を拒否された。怒った李学賛は、『朝鮮日報』紙と連携して、衡平社を造り、白丁解放運動を始めた。
総督府が何ら、力にならなかったのがよく分かる。
そもそも自国の部落問題さえ日本政府は何らその解決の手伝いをしていないのである。植民地の差別など解決しようとする訳がない。
ところで元々の「白丁」は、「きれいな人」という意味で、それ自体差別的な意味を持っていない。別民族であるという話もあるがいづれも正確な事は分かっていない。