フェミニズムについて (1)定義は無いらしい
フェミニズムについて、何人かの女性研究者に定義を聞いてみたのだが、さっぱり要領を得ない。
そこで、何百冊か本を読んでみた結果、私なりに一応は分かったこともあるのできちんと書いておきたいと思っている。
1、 フェミニズムには定まった定義は存在しない
(『快楽上等』より)
「女性解放を求める思想の実践だ」というのだが、では何が解放か?というと「誰にもわからない」「客観的に分かるものではない」「私にしか決められないと開き直る」という。「心で何を解放と感じるか、人によっていろいろ」だと言い、「ネオリベとすれすれだ」という。
これでは、フェミニズムが分かりにくいのも無理もない。客観的な定義がまるで存在しないのである。
だから、例えばこんな女性がいたとしよう。
実際にわけの分からないが「フェミニズム」を名乗る運動はいっぱいある。
例えば、『概説フェミニズム思想史』という大学研究者(奥田 暁子/秋山 洋子/支倉 寿子)が書いた本には、「母性主義フェミニズム」だの「レズビアン・フェミニズム」だの「エコフェミニズム」だの共通項さえよく分からないフェミニズム運動が並んでいる。
結婚を敵視するフェミニスト
(『フェミの嫌われ方』)
つまり北原氏が参加したフェミデモのシュプレーコールで、「結婚は奴隷制度だ」「結婚は合法的売春だ」と叫んでいたというのだ。
自分が結婚したくないなら、結婚しなくてもいいだけの話だと思うが、なぜかしらその結婚への憎しみを広めたい女性達がいたらしい。「結婚制度に疑問を持つ」北原氏でさえ、「恥かしくなる」ようなデモなのである。
これはもはや、上野氏らが上で述べていたような「自己決定権」でさえない。結婚しない自由はすでに存在しているからである。これは一種の憎しみ、不満の感情をぶつけているというしかない。
その不満やら憎しみに共鳴できるものが少ないというのが問題なのである。
多分、男性だけではなく、多くの女性たちでさえ、共鳴できないのではないだろうか?
もしこんな事を叫んで、それがフェミニであるというなら、それはもはやメアリ・ウルストン・クラフトの『女性の権利の擁護』とはまるで違うものと言うしかない。
結局は定義づけできなかった
『概説フェミニズム思想史』の”はじめに”には、「・・・はじめてフェミニズムに接する人がこの一冊を読めば、フェミニズムという思想がどのように生まれて来たのか、それは現代を生きる我々にはどんな意味があるのか分かるような本が欲しいと考えていた」と書いている。
そこでどんな答えが書いてあるのかと思ったら、結局は「人それぞれ」で「はっきりしたものはない」という事だ。
”あとがき”でこう書いている。
これでは「概説」にはならない。定義もはっきりしないものの歴史が書けるわけがないだろう。
しかし、読んでみていくつかの特徴に気付いた。
一つは、女性の歴史を「「支配され、虐げられた歴史」としてのみ捉えている」という事だ。
まるで共産主義に似ている。共産主義は、歴史を労働者と資本家の対立として捉えた。労働者は資本家に搾取されている。そこで労働者は闘争して、資本主義を打倒し、共産主義社会を建設する・・・というのが共産主義の歴史観である。
例えば、こんな風に・・・だ。
(クリックすると拡大できるよ)
物事の捉え方が似ているのは、理論的背景の一つが共産主義だからである。
まず、これが最初に気付いた事である。
「革命」をするためらしい。
その上野氏のことを同じフェミニストの斉藤正美氏は、フェミニの代表格としてみている。
フェミニ業界では強い影響力を持っているようだ。
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そして、第2波フェミニズムに最も強い影響を与えたのは、60年代の欧米に発生した「性革命」の波である。「性革命」とは言うまでもなく、今日まで人類が培ってきた性道徳を破壊するための思想運動である。ネオフロイド派の理論を核としている。
だから、上記のように「結婚は奴隷制度だ」「結婚は合法的売春だ」と叫んで、結婚制度を破壊したがるのである。それは道徳破壊活動の一貫だからだ。
あるいはこんな活動になってしまう。
この点については、次回か次々回に詳しく述べようと思う。
一体、どんな構造になっているのか?
(つづく)