従軍慰安婦・・・小林よしのり氏の描く嘘

http://space.geocities.jp/japanwarres/center/library/uesugi01.htm 「慰安婦」は商行為か?---慰安婦」問題の真実---上杉 聰(日本の戦争責任資料センター事務局長)
 
より転載


 
漫画家の小林よしのり氏は「新・ゴーマニズム宣言」(『SAPIO』)で、当時の事情を詳しく調べないままに、周囲の意見や自分の想像を頼りに、被害者やそれを支援する人々の見解に批判している。
  1. 被害者は突然日本軍に連行されたというが、「日本兵を装った現地の売春業者がいたという。お金はこっそり親に渡していたのかもしれない。昔は日本でも東北の貧農で娘を売らざるを得ない親がいたものではないか」(第24章)
  2. 長谷川伸『生きている小説』の「事実残存抄」に書かれている話として、ある軍医が中国の華南で慰安所に連れてこられた女性の検査をしたところ、「20歳の処女」がいることが分かり、救出資金を集めて、彼女を帰国させたことを、慰安婦問題の「誤解」を正すものとして紹介(第26章)
  3. 「兵士は一回ごとに料金を払っていて、慰安婦の収入は当時の大卒者の10倍!一般兵士の100倍の収入を得ていた者も多かった。2~3年働けば故郷に家が建った」(同前)
など、他にもさまざまな例を挙げて、国に責任はなく、「慰安婦」とされた人たちは「つくづく気の毒とは思うが、悪いのは現地の業者と売った親なのだ」(同前)と主張している。彼の漫画は影響力も大きいと思われるので、これらを批判しておくと・・・
  1. たしかに「娘を売る」ことは、江戸時代はおおっぴらに許されていた。だが、明治以降は、少なくとも本人の自由意志という形に整えられ、さらに1900年以降、戦後直後までの娼妓取締規則は、廃業の自由も制度的に認めていたのである。当時も法の運用において、また人々の意識の中に、「身売り」を肯定するものがあったことは事実だが、これを正面から肯定するというのは、江戸時代に逆戻りする時代錯誤である。
  2. 「事実残存抄」の話が慰安所が拡大を始めたばかりの1938年であることに注意する必要がある。女性は当時はまだ水商売経験者がほとんどであった。そこに「20歳の女性」が連れてこられたことは例外にみえるが、以後こうした女性の人数が増えてゆく前兆だったと考えるべきなのである。しかも20歳の女性に「売春」させることは、当時日本も加盟していた国際条約に照らしても(20歳まで未成年とされた)違法なことであり、「誘拐の嫌疑をかける」と軍医が叱っているが、それは当然のことなのである。
    ここで、注目すべきは、その軍医は、慰安所を管轄する主計将校の命令系統を使って帰国までの処置をとっていることである。軍に慰安所への指揮命令権があったことが明らかである。そして、たまたま正義感あふれる軍医がいたからこの場合彼女は救出されたし、右の本に書かれている時期は、まだ軍部にも国際法を意識する一面が残されていたし、総力戦下にないゆとりがあった。そうした様々の要因が消え失せていく時期に、もっとも残酷な事が行われたのである。
  3. 兵士たちがお金を払う場合が多かったのは事実である。だが、それで商行為だったと言えないことはすでに述べた。強制がある限り、あくまで強姦であり、商行為としてはなり立たない。ただ、多くの男性にとって、まして当時金を支払った兵士たちにとって、決して少額でない金を、身の切られる思いで支払ったことは、女性たちの実態を知らないままに、”商行為”のイメージを焼き付けることになった。しかも、女性の取り分は30%から90%まで、さまざまに噂されていたので、小林氏が書いたような「高収入の慰安婦」という印象は、多くの元兵士が抱き続けている。
今も日本国内に幅広く存在しているこうした誤解を解くためにも、政府は徹底した資料公開をする必要があるのだが、今はさて措き、公娼制のもとでさえ貸座敷主がどのような手口を使っていたかを知っておくことは無駄でないように思う。右の『生きている小説』にも「女の手取りは・・2円の女でいえば半分の1円は前借金へ入れ、残る半分の1円が手取りとなる、とこう聞かされたが、表面はそうだろうが、陰では勘定が別にあるらしかった」と書いており、また「ああいう女たちはみんなだまされて来ているのでねえ、この船でつれて来た女たちの顔というものが、当分のうち眼に残りましてねえ」という船長の話を載せている。

公娼制において、何割という手取りは形ばかりで、その中から高い生活諸雑費を奪われていたことは、今では広く知られていることだ。表は、伊藤秀吉『紅燈下の彼女等の生活』から取った大阪のある売れっ子の娼妓の収支(1923年)である。彼女の取り分は六割(532円15銭)とされていたが、そこから諸費用(481円)が引かれ、自分の手元には、ほとんど残らなかったことがわかる。
 
こうしたお金の流れの問題は、「慰安婦」問題ではまだ未解明な領域であるが、公娼制と同様に、ほとんど手元に残らなかった場合のあることが報告されている(川田文子『戦争と性』、西野留美子『従軍慰安婦十五年戦争明石書店)。軍票でなら大金を手にした事実も出てきているが、戦後、軍票は紙屑同然になった(吉野孝公『騰越』)。

さらにお金の流れを調べてゆくと、女性たちを前借金で集める際の業者が支払った資金も、軍が提供した可能性がでてきている(吉見前掲書)。また公娼制のもとで国や地方自治体が女性や貸座敷主から税金を取っていたように、慰安所の経営者からも税に匹敵する金額を取っていたことが明らかになりつつある。こうなると、藤岡氏のたとえに帰ると、文部省自らが慰安所の資金を出して経営し、それで儲け、女性たちから搾取していたことになる。
                                (以上転載終わり)


大日本帝国でなされていた「公娼制度」は、おおがかりな詐欺のようなものだった。
娼婦達は、食費だけでも膨大な金額を取られ手元にはほとんど残らないのであった。
従軍慰安婦はさらに過酷であった。
 
「兵士は一回ごとに料金を払っていて、慰安婦の収入は当時の大卒者の10倍!一般兵士の100倍の収入を得ていた者も多かった。2~3年働けば故郷に家が建った」
と書いているが、実際に家を立てた従軍慰安婦がいたのであろうか?
同じ日本の娘達さえ、騙し、虐待に近い搾取を行っていた売春業者が、韓国や中国の慰安婦にまともに金を渡していた訳が無い。
とりわけ、植民地としていた朝鮮半島の娘達に対しては過酷な扱いをしたであろう事は言うまでもないのである
 
この売春業者達の思想はすなわち「金こそ全てである」という拝金思想である。
彼らはマンモンの神に仕えたがゆえに、かかる極悪非道が行えたのであった