日本の従軍慰安婦に至る遊郭の伝統を見る

 斎藤真一「絵草子、吉原炎上
「この世というものは、何時の時代にも、それなりに苦界の渦巻なのではなかろうか。
人間はみんな這うように苦労して生きているのだ。
それでもどうしても幸せを得られない人、養祖母(紫花魁)のように、ふと幸せを得るような人もいるのだと思える。
そして、今一度裏を返してみると、もし、この記に書いた小花(角海老の花魁)のように、若くして死んだ遊女が仮に私の祖母だったら、私はこの世に存在しないはずである。誰も小花の事を記すべき人もなかったであろうと思うのである。
貴方も私も昭和に生きている、絶対に貴方であり、私なのだけれど、明治に生きた人であってもけっしておかしくないのだと思えてくる。
私が小花で、小花が今の私であっても一向におかしくないのではないだろうか。」

 
 
 
 
 
            遊郭の歴史
 
①日本には奈良時代から白拍子、傀儡(くぐつ)がいた。
(『万葉集』筑紫大宰府の「遊行女婦」の記事がある。歌舞と売春)
 
②平安中期・・・旅宿を兼ねた売春業=長者
 
③末期・・・・「抱き女」(巫女くずれ)
荘園制度の崩壊に伴い賤民が増え、遊女が増えた。
 
鎌倉幕府は遊女屋を禁止したが、御家人たちは「夜が寂しい」と訴えたので、。武士専属の遊女。
頼朝の富士山麓での狩猟に酒宴で近辺の遊女が集められた。
富士川夜討の酒宴
幕府は1193年(建久4年)売春婦を扱う「遊君別当」という官職をつくる。
 
⑤「足利2代将軍の時、(1359)菊池武光の乱を討伐せよという命令を受けた九州探題左京太夫氏経は、各軍船に傾城(遊女の事)10人20人を同乗させて出発したが、九州に到着するや否や、一たまりもなく敗北した」(『吉原・島原』小野武雄)
室町幕府(12代の時)は、「傾城局」という役所を新設し営業に鑑札を与えて税金を取った。
売春業を公に認めたのである。
 
⑥戦乱が続く時代「天文・永禄のころには駿河の富士の麓に富士市と称する所謂奴隷市場ありて、妙齢の子女を購い来たりて、之を売買し、四方に輸出して遊女とする習俗ありき」(『日本奴隷史』)
 
⑦秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊郭を造った。1585年に大阪三郷遊郭を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。ここには秀吉も遊びに行った。
 
⑧「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊郭)をはじめたのである」(『大君の都』オールコック
秀吉は遊郭に寛大だったので、遊郭は増えて行った。
 
⑨「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」(『日本売春史』中村三郎
 
⑩徳川は、お家の”安泰”のため、京都の公家と外様大名と浪人を警戒し、反乱を恐れて遊惰へ導き、公娼遊郭制度を保護発展せしめた。家康は『吾妻鏡』に関心を示し、秀吉の遊郭政策に見習い、徳川安泰を謀り、柳町遊女屋庄司甚右衛門に吉原遊郭設置許可を与えた。庄司甚右衛門は{(大遊郭をつくって)お大阪残党の吟味と逮捕}を具申したのである。甚右衛門はこう述べた。1、大阪残党の詮議と発見には京の島原のような規模が適切である。2、江戸に集まる人々の性犯罪の防止のため3、参勤交代の武家の性処理4、江戸の繁栄に役立つ。
幕府が三都の遊郭(吉原、京の島原、大阪新地)を庇護して税金を免除し、広大な廊内に自治権を与え、業者を身内扱いしたのはこのような理由があったのである。
身内扱いの事例として、すでに述べた税金免除の他、将軍代替わりの祝儀、料理人の派遣、摘発した私娼の引渡しがなされ、江戸では1666年に私娼大検挙がなされ、湯女512人が吉原に引き渡された。(『売笑三千年史』中山太郎
又あまりに非人間的な扱いに耐えかね訴えで出た遊女を奉行所は廊の楼主に引渡し、どんな処置をしてもよいと言い渡している。こうして遊女の悲劇が始まった。
 
⑪さらに百姓の反抗を恐れて「死なぬ様に生ぬ様に」と年貢を重くしたので結果不作が2年も続けば、農民は飢餓に泣かされ、姥捨て山の悲劇や妻娘を遊郭に売るようになった。遊郭は婦女子を二束三文で買い取ることで発展したのである。
全国に女郎屋が栄えると遊女の消耗も激しくなった。こうして女衒(ぜげん)と呼ばれる婦女売買、誘拐業者が生まれたのである。農村の娘を安く買いとって遊郭や宿屋女郎に売り飛ばす「口入稼業」である。
 
⑫幕府の推奨した色骨抜き作業に引っかかり、好色のために衰弱死した大名は、浅野幸長加藤清正池田輝政大久保長安などがおり、浅野幸長結城秀康黒田如水などは梅毒に感染していたようだ。こうして2百数十年間に渡って日本各地に遊郭が栄え、江戸文化の一つとなったが、やがて、性病が蔓延し、幕末には約三割が梅毒感染者であったとも言う。家康自身が70を過ぎて淋病にかかり、他におおくの感染者がいた。(『徳川家康』北島正元)
 
⑬明治時代になって、遊郭はさらなる発展を遂げるようになった。横浜では外人目当ての遊郭が生まれ、政府は会津征伐の軍資金五万両を業者に出させ、代わりに築地鉄砲州遊郭の設置を許可したりもした。
 
 
           遊郭楼主の行ったバアル崇拝
 
 遊郭の楼主には奇妙な風習があった。楼主の部屋を内証(内所)と呼ぶが、その部屋には撫牛(粘土で作った子牛)を布団の上に大事に供えてあり、楼主は暇さえあれば牛の偶像を撫でながら「千客」「千金」を祈っていた。
ある楼主は銀製の子牛の像を座側において呪文を唱えてなでおろしたという。彼らの祈願するところは、日本中の男が好色の遊客になることであろう。
彼らの内所の奥には、縁起棚が置かれ、そこに赤々と灯明がともされていた。その縁起棚には、張子の金精大明神の神体(男根)が据えられていた。彼らには男根が御神体であったわけである。その張子の御神体は、吉原遊郭に近い浅草の観音境内で売り出されていた。
 
(『遊女ーその歴史と哀歌』北小路健
 
 
 
 
 一度娼妓になると前借金が返せず中々抜け出せなかった。
 
  
 貸座敷や娼妓、周旋業者などの調査については、内務省や公的機関も何度も行っている。娼妓の生活実態や給料については、東京市の中央職業紹介事務局が行った「芸娼妓酌婦紹介業に関する調査」(以下「調査」と略)(注3)に詳しく報告されている。
 
 この「調査」は、1926(大正15)年1月から3月まで、東京市とその周辺についての貸座敷について調査したものであり、同年10月に刊行されている。タイトルを見るとわかるが、主な調査対象は紹介業者、つまり周旋業者についてである。しかし、貸座敷全体についての詳細な調査が行われており、貸座敷の実態を知るためには重要な史料である。そして、この調査を行ったのは、当時中央職業紹介事務局から委嘱された草間八十雄(東京市社会局嘱託)であった。
 
 娼妓の給料については、個人の実例を挙げて次のように説明している。
 
 例えば金吾という娼妓であるが、前借金を2250円負債している。そして、9ヶ月間働き相手にした遊客数は472人、総揚代金は1487円85銭、1ヵ月平均にすると165円32銭である。このうち金吾の所得は9ヶ月間で897円61銭、1ヵ月平均99円73銭である。
しかしこの所得の中から「(一)賦金、(二)食費、(三)入浴料、(四)衣裳損料、(五)寝具損料、(六)理髪料、(七)廓費、(八)利子、(九)薬価、(一〇)雑費」(428頁)の合計、9ヶ月間で767円21銭、1ヵ月平均85円25銭が諸費として差し引かれる。
 
 つまり金吾は、9ヶ月間で897円61銭の所得から諸費767円21銭を差し引かれ、実際手にしたのは130円40銭、1ヵ月平均では14円49銭のみである。この14円49銭から前借金を返済していかなければならないのである。
 
 他の事例も見てみよう。若玉は前借金が1800円。12ヵ月働き相手にした遊客数は669人。総揚代金1888円35銭、1ヵ月平均157円36銭。所得が12ヵ月で1157円67銭、1ヵ月平均96円47銭。諸費合計が12ヵ月で868円81銭、1ヵ月平均72円40銭で、若玉が実際に手にした金額は12ヵ月で288円86銭、1ヵ月平均24円7銭である。
 
 小紫は前借金が736円75銭。5ヶ月間で相手にした遊客数は242人。総揚代金672円45銭、1ヵ月平均134円49銭。所得が5ヶ月間で402円47銭、1ヵ月平均80円49銭。そこから諸費5ヶ月間で327円47銭、1ヵ月平均65円49銭(注5)を差し引かれ、小紫が実際手にした金額は5ヶ月間で75円、1ヵ月平均15円(「調査」には15円50銭となっている)である。
 
 梅ヶ枝は前借金2000円。5ヶ月間で相手にした遊客数294人。総揚代金886円83銭、1ヵ月平均177円37銭。所得が532円5銭で、1ヵ月平均106円41銭。そこから諸費5ヶ月間で481円20銭、1ヵ月平均96円24銭を差し引かれ、梅ヶ枝が実際に手にしたのは5ヶ月間で50円85銭、1ヵ月平均10円17銭 である。
 
 この実際に手元に残る金額から前借金を返済して行くのは相当な無理があることがわかる。しかも、この金額を返済に充てられるかといえばそうではない。なぜなら食費に充てられることが多いからである。
 
 貸座敷でも食事は出るが(そのため諸費の中に「食費」がある)、粗末なものでしかない。娼妓(遊女)に満足な食事を与えないことは江戸時代からの慣例である。なぜそうするのか。理由は大きく分けて二つある。
 
 第一は、娼妓(遊女)を飢えた状態にしておくことによって、娼妓(遊女)が遊客に食事をねだるのである。そのため遊客は、花代と食事代とを楼主へ支払うこととなり、楼主としては二重に儲かるのである。また、飢えから逃れるため娼妓(遊女)が積極的に遊客をとるようになるからである。
 
 第二は、給料の大半を食事に使わせ、前借金の返済を滞らせるためである。
 
 毎日新聞社の「社会外之社会」においても、「娼妓の食物」として下記のようにある。
 
「娼妓の食物   娼妓の食物は大概二食にして、午前七時と午後四時を通例となす。其の大店又は中店と称する楼の娼妓は、其楼主よりの待遇稍々宜しと雖も、河岸店又は切り店と称する最下等の娼楼に於ては、米は南京米を用ひ、其の副食物は糠臭さき香の物を三片か四片にして到底常人の食し得べき者に非ず、監獄に於ける囚人の食物と雖も之に比しては尚上等なりと思はるゝ者なり。故に此等の店に於ける娼妓は、常に其の小遣ひ銭を以て香の物を購ひ、或は客に向ひて、豆、うであづき、玉子其他の食物をねだり、夜に入れば鍋焼きうどんを買ひ、ふかし芋を食ひ、以て漸く其餓死を免かる、此酒池肉林の如き境界に在る彼等にして此の如く食物に苦しむことは、殆んど常人の想像する能はざる所にして、シカモ事実は彼等が毎日食物に依りて費やせし費用の意外に多きを以て証せらるゝなり。」
 

 
 
 (参考  谷川健一編『近代民衆の記録3 娼婦』(新人物往来社 1971年)