昔、賀川豊彦の感じた日本の右傾化

昭和の初めころ、賀川豊彦の主導する「神の国運動」が始まった。「神の国運動」は日本キリスト教の歴史の中でもっとも成功した伝道活動の一つだった。大正時代のベストセラーであった「死線を越えて」の作者として有名人だった賀川の講演はどこでも満員であったと言う。
しかし、賀川はこれを成功とは感じなかった。
賀川は、神の国運動の終わりに近づいた頃、「神の国運動は失敗だったか?」
といういささか挑戦的な論文を書き、神の国運動の成果について厳しい判断を自らくだしつつ、その阻害要因を三つ 挙げている。
 
 
「第一年目に教会それ自身の無頓着があり、第二年目に反宗教運動が起り、第 三年目にファッショの運動が起った。そして日本が軍国主義によって、思想的 にも抑圧されるに至った。」 
 
賀川は第一に「教会の無頓着」について語っていが、多くの教会はもともと社会的関心が乏しいところに、時局の変化で確 実に右傾化してゆき、ますます保身的になって行きつつあった。
その頃、時代は暗雲を立ち込めていた。
 
第一次大戦後、物価は高く、慢性的な不況が続き回復しないまま1929年、世界恐慌が起こる。その渦は日本にも容赦なく直撃し都市でも農村でも人々の生活は実に苦しかった。賃下げ、首切りが相次ぎ31年の労働争議は史上最高件数を記録している。
その上、30年、31年と冷害、津波、干ばつなどが続き人身売買があとを絶たなかった。こうした状況を看過できず、賀川は「魂の救済と生活の救済は一つである」と述べ信徒の相互扶助の必要性を唱えながら「神の国運動」を始めたのである。
 
しかし、その頃もう一つの巨大な渦が日本に起こりつつあった。
 20年代後半から汚職事件が次々と露顕し、議会政治に対する不満が高まって行った。
30年、浜口首相狙撃事件 。31年三月事件。10月事件 。32年血盟団事件。と 右翼による血なまぐさいクーデターが起こり、さらにその頃大陸では駐留していた関東軍満州事変を引き起こしたのである。
 
大日本帝国に強力な右傾化の流れが起こり、1933年には政党政治は終わりを告げ、挙国一致内閣がつくられた。
そしてやがて軍閥の力が強大化し、軍国主義時代へと突入したのである。