伊藤博文と公娼制度

 
 
幕末・明治維新に活躍した人物たち-大久保利通木戸孝允西郷隆盛伊藤博文など-は、芸妓・娼妓遊びを好んでいた。
 
 その中でも、日本の初代総理大臣であり、初代韓国統監府であった伊藤博文の女好きは有名である。
 
 幕末・明治となり、欧米人が日本へ来るようになるが、彼らにとってとても奇異に見えたのが遊廓・貸座敷である。欧米諸国でも売春婦はおり、売買春が行われているが、日本のように公然と昼間から堂々と行ってはいない。また売春婦も、自分でその道を選んで行っているのに対し、日本では人身売買を基礎として行われており、当時の欧米人は理解に苦しんだようだ。
 
 1896(明治29)年にイギリスの「デイリー・ニュース」の記者が、伊藤博文に対し様々なことを質問している。その中で公娼制度についての質問もあり、それに対する伊藤の返答が『婦人新報』第二〇号(明治二九年九月)に掲載されている。そこには次のようにある。
 
「拙者はこれ(管理人注-遊廓のこと)を廃することを好まない。外国宣教師の云ふが如く之を廃する以上は、其人は非常の責任を双肩にしょひ込まなければならない。道徳上より立論するも之を置くこそ遙かにましじゃ。之を不徳の制度と云ふは英国あたりの気狂じみたものの云ふ言で、これぞ寧ろ不徳を監視し制度し且つ支配するものと云わねばならぬ。
且つ之を一処に離し置くからして此場所以外の人民はその汚濁を受けない。もし然らずしてこの七千人の娼婦を市街に散在せしむると仮定せよ、其結果はどうだらう。今日の如くにしておけば道も遠し行くには面倒にもなり何やらかやらで情慾も制止する。また娼婦にしても医者もあり看護婦もあり管理と注意に不足はない。足下よ彼等を以て単に不徳と呼ぶ勿れ、憐むべし彼等の中には貧苦に迫る両親を扶けんため身を売り孝を為さんといふ高尚なる目的を懐けるものもある。故に苦役中善行を積むものはふたたび社会に出ることが出来るのである。
足下願はくは此一事を能く記憶せられよ、日本の通常婦人と云ふものは、西洋人等が如何に批評し如何に観察するも、道徳上欧州の通常婦人には少しも劣らない。殊に欧州の婦人社会に有勝の姦通は幸ひ我日本の婦人社会には殆どないと云つても差支へはありません」(注1)
 
 この言葉の中に伊藤の公娼制度観が良く現れている。しかし、ここで伊藤が述べていることは本当だろうか。
 
 伊藤は、「之を一処に離し置くからして此場所以外の人民はその汚濁を受けない。」・「今日の如くにしておけば道も遠し行くには面倒にもなり何やらかやらで情慾も制止する。」と述べているが、これが本当なら貸座敷の経営が成立しない。しかし、経営が成り立っているのは、単に娼妓の稼いだ揚代金から暴利を貪るだけでなく、それだけの遊客がいたということであり、この伊藤の言葉はおかしい。
 
 「また娼婦にしても医者もあり看護婦もあり管理と注意に不足はない。」とも言っているが、それならば、花柳病の増加・蔓延をどのように説明できるのか。廃娼県である群馬などは存娼県よりも花柳病者は少なく、存娼県の方が花柳病者が多い。(注2)
 
 「故に苦役中善行を積むものはふたたび社会に出ることが出来るのである。」とあるが、一旦娼妓となってしまえば、自力で廃娼することは難しい、「苦界」・「苦海」といわれる所以はここにある。(注3)
 
 「憐むべし彼等の中には貧苦に迫る両親を扶けんため身を売り孝を為さんといふ高尚なる目的を懐けるものもある。」とあるが、実はこの意見は公娼制度肯定論を支えている大きな柱でもある。つまり、両親・兄弟・夫・子どもなどのため娼妓となるのは立派であり、特に両親のためにその身を売るのは「孝行」であるというのである。そして、両親は、娘を売った前借金によって滞納していた税金を支払ったり、借金を返したりする。これは「お国」に対する「忠義」である。日本近代の公娼制度を支えていた倫理観とはこの「忠孝」であった。
 
 しかし、本当に「忠孝」につながるのであろうか。貸座敷の楼主たちはそれを否定している。
 
 「市場氏が東京の二三の楼主に懇意にした結果先方では殆ど腹蔵なく話したといふ一節に曰く(中略)此の親孝行といふ道がどうも誤解されて親のために女郎になることが非常な名誉の如く自覚されてゐる結果殆ど箸にも棒にも掛らぬ親を有つて居るにも拘らず女郎になることをば一つの親に尽す孝道と考へてゐるに至つては更に私共は之を哀れに感じます云々。」(注4)
 
 このような人物が日本の初代総理大臣であったことを、日本近代の公娼制度を考える上では無視できない事柄であると思われる。
 
 更にその伊藤が日露戦争後の1905年設置された韓国統監府の初代統監となっているのである(この韓国統監府が韓国併合後に朝鮮総督府となる)。
 
 年表を追っかければよくわかるのであるが、朝鮮における日本の公娼制度移入は、日露戦争前後・韓国統監府設置以降(1904年~1908年)重要な法令整備がされていく。(注5)
 
 近世の公娼制度が廃止されず、近代となってもそのまま維持されていったことに、伊藤博文が果たした役割は大きいといえるだろう。
 
 
(注1)村上信彦『明治女性史 下巻』(理論社 1972年2月)(6-7頁)
(注4)上村行彰『売られ行く女』(1918年7月15日)  『近代庶民生活誌 第13巻 色街・遊廓 Ⅰ』(三一書房 1992年3月31日) 43頁