史料紹介:東京裁判慰安婦・慰安所関係史料-その1

東京裁判時に提出された膨大な証拠書類の中に慰安婦慰安所関係のものがあることがわかった。この史料の発掘に関しては戸谷由麻による業績が大きい。

 
 戸谷はカリフォルニア大学バークレー校で博士号取得した人物で、現在はハワイ大学マノア校の歴史学部助教授をつとめている。この戸谷がそれまで刊行されている東京裁判の速記録や関係史料、あるいはアメリカの図書館に収蔵されている史料などを丹念に読み返し、一連の史料を見つけたのである。
 
 しかし、東京裁判では慰安婦慰安所の問題は正面から 取り上げられてはいないので、戸谷が発見するまで見逃されてきたのが事実である。
 
 この東京裁判で提出された慰安婦慰安所関係の史料は、日本の戦争責任資料センターによる「季刊 戦争責任研究」 第56号(2007年夏季号)で全文が掲載された。
 
 これから数回にわたりその史料を掲載していく。出典は全て前掲「季刊 戦争責任研究」なので、特に断りもなく頁数のみある場合はそこからの引用だと思ってもらいたい。
 
 また、戸谷の著書としては下記のものを参照してもらいたい。
 
 「東京裁判における戦争犯罪訴追と判決」(笠原十九司・吉田裕編『現代歴史学南京事件柏書房 2006年)
 『東京裁判-第二次大戦後の法と正義の追求-』(みすず書房 2008年)
 
 
 以下はオランダから提出された証拠書類の一つで、地元女性が強制的に慰安婦にさせられていた例である。
 
 
インドネシアボルネオ島(カリマンタン)ポンティアナック   
日本海軍占領期間中蘭領東印度西部ボルネオに於ける強制売淫行為に関する報告
                                              一九四六年七月五日
 
 一九四三年の前半にポンチアナック海軍守備隊司令海軍少佐ウエスギ・ケイメイ(同人は一九四三年八月頃日本に帰国したり抑留を要求し置けり)は日本人はインドネシヤ或は中国の婦人と親密なる関係を結ぶべからずといふ命令を発しました。当時全ての欧州婦人と事実上全ての印度系欧羅巴婦人は抑留されて居ました。彼は同時に公式の慰安所official  brothelを設立するやう命令を出しました。是等の性慰安所brothelは二種に分類することになって居ました。即ち三ヶ所は海軍職員専用、五,六ヶ所は一般人用で其の中の一ヶ所は海軍民政部の高等官用に当てられました。   
 
 海軍職員用の性慰安所は守備隊が経営しました。司令の下に通信士官海軍大尉スガサワ・アキノリが主任として置かれ日常の事務は当直兵曹長ワタナベ・ショウジが執って居ました。日本人と以前から関係のあった婦人達は鉄条網の張り廻らされた是等の性慰安所に強制収容されました。彼女等は特別な許可を得た場合に限り街に出ることができたのでした。慰安婦をやめる許可は守備隊司令から貰はねばなりませんでした。海軍特別警察(特警隊)が其等の性慰安所慰安婦を絶えず補充するやうに命令を受けていました。此の目的の為に特警隊員は町で婦人を捕へ強制的に医者の診察を受けさせた後彼等を性慰安所に入れました。是等の逮捕は主としてミヤジマ・ジュンキチ、コジマ・ゴイチ、クセ・カズヲ、イトウ・ヤスタロウ各兵曹長によって行はれました。  
 
 一般用の性慰安所は南洋興発株式会社支配人ナワタ・ヒサカズが経営しました。守備隊司令は民政部に命じて之を監理させました。民政部は此の経営を報国会(日本人実業家の協会)に依嘱してナワタが報国会の厚生部の主任であったので是等一般人用の性慰安所の主任に任ぜられました。彼は帳簿をつけたりするやうな事務的仕事には彼の会社の使用人を使用しました。毎朝、夜間の収入は南洋興発会社の出納係キタダ・カゲタカに引渡されました。是等の慰安所に対する婦人達も亦特警隊の尽力によって集められました。   
 
 其等の性慰安所に充てられた家屋は敵産管理人から手に入れ家具は海軍用性慰安所にあっては海軍が支給し一般人用にあっては報国会が支給しました。遊客は原住民である傭人に(海軍の場合には其の階級に従って)金を支払はねばなりませんでした。又その傭人は其の金を毎日当直兵曹長又は南洋興発の出納係に引渡しました。両者の場合三分の一は諸経費、家具、食物等を支弁する為保留され、三分の二が当該婦人の受取勘定に繰り入れられました。此の中から婦人達は随時彼等を各自の用に充てる為其の一部を引出すことが出来ました。毎月の計算書は民政部の第一課に提出せねばなりませんでした。   
 
 特警隊は婦女を捜すに当り民政部及日本人商社の全婦人職員に特警隊に出頭するやうに命じその婦人達の何人かを真裸にし日本人と関係していたとなじりました。次いで医師が検診をしましたが数人は処女であったことが判りました。是等の不幸な婦人達の中何人が性慰安所に強制的に送られたか確実には判りません。婦人達は性慰安所から敢て逃げ出さうとは致しませんでした。と言ふのは彼女等の家族が特警隊に依って直ちに逮捕されて非道く虐められるからでした。一例として此の様な事の為当の少女の母親が死んだ事があります。   
 
 幸にも占領期間中引続き診療に従事することを許された、在ケタパンのインドネシヤ人軍医ルフリマ博士は特警職員の命令で彼の行った是等婦人の検診に関し宣誓供述をする事が出来ました。   
 
 彼の証言に依ると婦人達は強制的に売淫させられたのであります。上記の報告は日本人戦犯者の訊問から得た報告と本件関係者の宣誓陳述とから輯録されたものであります。   
 
 私は上記の事実は真実に上述の報告書に相違する点のない事を情報将校及日本語通訳として誓って断言致します。   
 
 バタビヤ   一九四六年七月五日   
     ジェー・エヌ・ヘイヂブロエク   
                    J,N,Heijbroek陸軍大尉   
           蘭印軍情報部   
 
 
(訳注)「蘭印軍情報部の公式記録より採られたもの」と記された、蘭印軍情報部戦争犯罪課長チャールズ・ヨンゲテル陸軍大尉の署名付「証明書」も付けられている。「慰安婦」と約されている箇所は英文ではwomenのみ。(13-14頁)
 
                                              http://blogs.yahoo.co.jp/kyoto_focus/6326766.html