資料が語る日韓関係史





http://ecx.images-amazon.com/images/I/518CuKIeCeL._SL160_.jpg日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史
(2007/02/22)
歴史教育研究会

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P214~

・武断支配
日本は大韓帝国を滅亡させ、朝鮮総督府を設置し武力で朝鮮を支配した。日本は朝鮮に帝国憲法を適用せず、議会を設置しなかった。朝鮮総督は、行政・立法・司法・軍事に関する強い権限を行使した。日本は現役大将を総督に任命し、末端にまで日本人官吏を派遣して、支配体制を構築した。日本は朝鮮人天皇に忠誠を誓う本当の日本人として作りなおすために同化政策を実施した。これに対する朝鮮人の反発と抵抗も強固に続けられ、日本の朝鮮支配は思い通りには進まなかった。
朝鮮総督府の初めの10年間は、憲兵が警察業務まで担当し、教師さえ剣を下げて授業を行った。また、土地所有と租税徴収を改善するという名目で、土地調査事業(とちちょうさじぎょう)を実施した。その結果、租税収入は2倍に増加し、日本人の所有する土地も大幅に増えた。一方、朝鮮総督府は朝鮮で会社を設立する時は、総督の許可お受けることにしたので、朝鮮人による商工業の自由な発展は抑圧された。これによって朝鮮人の経済活動は大幅に萎縮させられた。


・文化統治
日本は3・1独立運動に衝撃を受け、朝鮮支配政策をいわゆる「文化統治(ぶんかとうち)」に転換した。これを契機に朝鮮人は制限的にではあるが集会を開き団体を組織し、ハングルで書かれた新聞と雑誌を発行することができるようになった。しかし、「文化統治」の間にも、警察官の数を大幅に増やし、日本と同時に治安維持法を施工するなど、支配はより厳しくなった。日本は食糧不足を補うため、朝鮮で米を増産する政策を実施した。しかし、増産された量よりもはるかに多くの米が日本に搬出され、朝鮮人の1人当たりの米の商品量は大きく減少した。




今日はここまでだが、3.1独立運動の前後がよくわかる。

当時、アメリカの外交官サンズが、

「なぜなら朝鮮の民衆は、絶望的なほどに虐待されない限り、常に平和的で他人に害を及ぼさないからだ。朝鮮人ほど統治しやすい民衆はない。」(『極東回想記』)

と述べた朝鮮半島の人々だが、大日本帝国の圧政には、耐え切れないと感じたのだろう。

武装を解除され、ろくな武器もないままで、この後何度も抵抗運動が繰り広げられている。
3.1独立運動はその中でも最も大規模なものであった。





왜냐하면 조선의 백성들은 절망적이라만큼 학대받지 않는 한 늘 평화롭고 남을 해치지 않기 때문이다. 조선 사람들보다 더 다스리기 쉬운 백성은 없다. (p. 157)
なぜなら朝鮮の民衆は、絶望的なほどに虐待されない限り、常に平和的で他人に害を及ぼさないからだ。朝鮮人ほど統治しやすい民衆はない。(『極東回想記』)
米国の外交官W・F・サンズは 1898年にソウルの米国公使館に赴任した。1900年に公使館を辞任し、高宗の顧問として朝鮮の改革に努力し、日露戦争の開戦とともに帰国した。1899年『極東回想記』を著した。








〔付録〕
世界を憤怒させた日帝の残虐行為


アーソン・グレブスト「悲劇の朝鮮」のなかでこう書いている。

【日本人が憎悪の的になった理由としては土地の占領だけでなく、日本当局の移民政策の誤りもあった。この政策は戦争が終ってから実施してこそ、反発を最小限にくいとめられる性質のものだった。そのときなら当局にも日本移民を監督できる余裕ができ、規制を加えることも可能になるだろう。
周知の事実として、移民はおもに社会の下層階級の冒険家と一攫千金を夢みる者から成っていて、彼らは皆恐いもの知らずだ。日本軍は厳しい規律と、前もって計画された注意深さで朝鮮人の反発をかわしたが、軍隊の後からやって来た多数の開拓民の場合は、それとは正反対だった。彼らは他に例が見られぬほどの好戦性をもって傍若無人に振るまい、朝鮮の人民はわずかの救済の可能性すらなく日本人の思いのままに扱われた。日本の軍当局には平民たちの不満をなだめるより前にやるべきことがあり、そして朝鮮の法廷にはなんの権力もなかった。強大国間の戦争にまきこまれ、その舞台と化してしまった弱小国の人民が苦しみを被るのはよくあることだとはいえ、日本移民の犯した過ちにたいする日本当局の弛んだ姿勢は非難を受けても余りがある。
朝鮮王妃の弑逆(一八九五年の閔妃殺害)をその罪目の初めとして、朝鮮にたいし責任を取るべき蛮行はそのほとんどが天罰を受けてしかるべきものである。朝鮮は弾劾絶壁に立たされた。商業が受けた打撃は決定的で、回復の可能性はないありさまだった。P58-59】



H・B・ハルバート(岡田丈夫訳)『朝鮮滅亡-古き朝鮮の終幕』太平出版社,1973. [初出=1906年]
王妃は続き部屋の一つに隠れているところを見つかって、たちまち、むざんにも虐殺された。直接手をくだしたのが朝鮮人か日本人か、絶対の正確さをもっていうことはできないけれども、下手人は武器をもった日本人のひとりだということは、おそらく本当だろう。(上巻, p. 183)

平壌に住む一朝鮮人が日本の一民間人から、時価の四分の一の値段で家を売ってくれと強くせがまれた。その人間がこの申し出に異議を唱えると、たちまち付近の日本軍兵舎にひっ張られていかれて、めちゃくちゃにぶんなぐられた。この侮辱に耐えかねた彼は、毒を飲んで自殺した。その死体がまだあたたかいうちにもう例の日本人がやってきて、未亡人にむかって、さきの値段でぜひとも家を売ってくれと迫った。(上巻, p. 279)



ゲ・デ・チャガイ編(井上絋一訳)『朝鮮旅行記平凡社東洋文庫,1992. [初出=1958年]
公然たる日本人の敵、ならびに活動的で聡明な女性である王妃は、日本人の圧迫に一人耐えて国王を支えていたが、彼らによって惨殺された。(p. 322)



W・F・サンズ(申福龍訳)『朝鮮備忘録』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1930年]
数人の暴徒たちが王と大院君を護衛する間、大部分の壮士たちは王妃を殺せと叫びながらあちこちに散って行った。今回は残念ながら王妃を護衛してやる強靭な鉱夫はいなかった。王妃を発見した暴徒たちは、刀を振るった後、まだ息がある彼女を油に浸した薪の上に投げ込んだ。結局彼女の死体は焼き尽くされ、数個の骨が埋葬のため拾い集められただけだった。(pp. 75-76)



Angus Hamilton, Korea, New York, Charles Scribner's Sons, 1904.
したがって自国の半ダースほどの米穀商の利益を守るために禁輸の維持にこだわった日本の行為は、最も非難すべきことである。この大量死の一次的な責任は、全的に日本政府にある。朝鮮政府を脅して行動を縛り、結果的に百万人以上の死者を出した日本政府の政策は、根拠と常識を全く欠いており、人道主義のあらゆる原理に反するものである。 (p. 253)



F・A・マッケンジー(渡部学訳注)『朝鮮の悲劇』平凡社東洋文庫,1972. [初出=1908年]
壮士たちは、ふるえながら逃げまわる宮女たちをつかまえ、頭髪をつかんで振りまわし、殴打して、王妃の所在を言えと強要した。彼女らは、うめき泣きながら、自分たちは知らないと言いはった。そこで彼らは、数名の宮女の頭髪を引っぱりながら隣室に押し入った。先頭に立った岡本が、その部屋の一隅に自分の頭髪をしっかりかかえながらうずくまっている一人の小柄な婦人を見つけ、王妃ではないかと尋ねた。その婦人は、それを否認し、いきなり彼らを押しのけ、叫びながら廊下へと走り出た。当時、そこにいあわせた彼女の子息は、彼の名を呼ぶ彼女の声を三度聞いたが、しかし、その次の呼び声の出る前に、日本人たちは彼女をつかまえて斬り倒したのであった。彼らは、王妃の待臣数名を引きずり入れて死体をみせ、それが王妃であることを確認させたが、そのあとそのうちの三人を剣で刺し殺した。(p. 63) 


一人の日本兵が野菜売りの妻女を犯すあいだ、他の兵士は着剣した銃でその家を見張っていた。その婦人の悲鳴を聞きつけた一人の少年が、走って行って、その夫を連れて来た。彼は小刀を手にしてやって来た。その長老は私に反問した。「しかし、彼に何ができたというのでしょう? 門前には剣つき鉄砲を持った兵士がつっ立っていたというのに!」と。(p. 190)


当時の日本がどんな風に孤立して行ったのか?
がよくわかる話だ。