国家神道の教祖・平田篤胤が靖国に与えた影響



毛利元就宗像大社厳島神社の《宗像3神》を篤く崇拝していたのはよく知られている。宗像3神は海上航海の安全、戦の神として知られ《古事記》に書かれている3女神である。
その毛利家の家臣たちが明治維新の動乱と戊辰戦争で死んだ兵士を祭ったのが靖国である。
 
神道では古代から「人は死ねば黄泉の国に行くが、祭りを通してこの世の人と交流する」と考えられていた。(安蘇谷、1989)

したがって、祭りはあっても死者を弔うような儀式は存在しなかった。

そもそも、チベット死者の書チベット仏教)に見られるような、死後の世界の理論や道案内のための言葉など神道にはなかったのである。

柳田国男が「死穢の恐怖がわれわれの弱み」と述べたように、死後の儀式は仏教に独占されていた。しかし、仏教嫌いの平田篤胤は、神社と習合していた仏教を排斥し、神道的考えによる葬儀儀式を考えたのである。

平田は「死後の霊が行く幽冥からこの世を見聞することができる」とし、

死後の霊魂は顕世の子孫を保護すると主張した(『新鬼神論』)。

(その他仏教の閻魔や『聖書』の審判信仰を模して「大国主の審判を受ける」とも書いている。)
 
こうして死後の霊魂は顕世の子孫を保護するという「英霊」思想が生まれる素地となったのである。
 
復古神道の考え方に近い柳田国男は「死穢の恐怖がわれわれの弱み」「先祖を子孫が祀ることで「一家の永続」という幸福が保たれる。死後は極楽や地獄といった遠いところではなく、この国土の中に相隣して住み、子孫と交流する」としている。歴史読本2014年2月P164)

この「英霊」思想は、前述の死後の霊魂は顕世の子孫を保護するという考え方に基づいており、これは6道輪廻の中で死後転生した人達の魂を安らげ、導くためお経をあげて語りかける仏教の「供養」の考え方とはまるで異なるのが分かるだろうか?

日本人は宗教音痴だが、「死」への捉え方や対応の仕方がまったく違うのだという事を理解して欲しいものだ。それは、そもそも「世界観」が違うからである。


 
やがて明治維新後、新政府は祭政一致をかかげ明治政府には矢野玄道などの復古神道家が入り込み、その宗教政策をになった。
 
こうして1869年、復活した神祇官
 
古来天皇守護の 天神地祇8神のみが祭られていたところに歴代皇霊を加えて祀ったが、従来無かった先祖祭祀を加えており、これもまた平田の復古神道の考え方を受けいれているのである。



70年 大教宣布の詔が発せられ神道が「大教」の名で組織的に布教されるようになった。このとき神社・寺院領地すべて官収となり、しかし神社は官営となったので打撃をうけず、神社をのぞいて寺領に依存していた寺は打撃をうけた

71年、17万を超える全国の神社はすべて国家の宗祀と定められ伊勢を本山にピラミッド型に編成される。伊勢はこのとき厳かなたたずまいに造りなおされ 神宮と呼ばれるようになった。                                
179 

国家神道神道ではない」という人がいるが、それはデタラメである。もしそうであるなら平田神道自体が神道ではないという事になってしまうだろう。