国家神道の教祖・平田篤胤が靖国に与えた影響
神道では古代から「人は死ねば黄泉の国に行くが、祭りを通してこの世の人と交流する」と考えられていた。(安蘇谷、1989)
したがって、祭りはあっても死者を弔うような儀式は存在しなかった。
平田は「死後の霊が行く幽冥からこの世を見聞することができる」とし、
死後の霊魂は顕世の子孫を保護すると主張した(『新鬼神論』)。
(その他仏教の閻魔や『聖書』の審判信仰を模して「大国主の審判を受ける」とも書いている。)
こうして死後の霊魂は顕世の子孫を保護するという「英霊」思想が生まれる素地となったのである。
(復古神道の考え方に近い柳田国男は「死穢の恐怖がわれわれの弱み」「先祖を子孫が祀ることで「一家の永続」という幸福が保たれる。死後は極楽や地獄といった遠いところではなく、この国土の中に相隣して住み、子孫と交流する」としている。『歴史読本』2014年2月P164)
この「英霊」思想は、前述の死後の霊魂は顕世の子孫を保護するという考え方に基づいており、これは6道輪廻の中で死後転生した人達の魂を安らげ、導くためお経をあげて語りかける仏教の「供養」の考え方とはまるで異なるのが分かるだろうか?
日本人は宗教音痴だが、「死」への捉え方や対応の仕方がまったく違うのだという事を理解して欲しいものだ。それは、そもそも「世界観」が違うからである。
こうして1869年、復活した神祇官は
70年 大教宣布の詔が発せられ神道が「大教」の名で組織的に布教されるようになった。このとき神社・寺院領地すべて官収となり、しかし神社は官営となったので打撃をうけず、神社をのぞいて寺領に依存していた寺は打撃をうけた
71年、17万を超える全国の神社はすべて国家の宗祀と定められ伊勢を本山にピラミッド型に編成される。伊勢はこのとき厳かなたたずまいに造りなおされ 神宮と呼ばれるようになった。 179
71年、17万を超える全国の神社はすべて国家の宗祀と定められ伊勢を本山にピラミッド型に編成される。伊勢はこのとき厳かなたたずまいに造りなおされ 神宮と呼ばれるようになった。 179