篤胤と靖国思想(2)

で書いたことをもう少し予備知識を加えておく。
 
平田篤胤は36歳のときに『霊能真柱(たまのみはしら)』を書いて、生死観を詳細に論じた。
 
「篤胤が宣長以上に積極的に「死」の問題について発言した理由は、国学者の多くが晩年になると、仏教的生死観や垂加神道の日之少宮の伝に心を奪われている状況を知っていたから。というのは、宣長の黄泉に行くという説では死後の安心が得られなかった。その意味で、『霊能真柱(たまのみはしら)』において、宣長の黄泉説を徹底的に論難したのも当然である。
そこで『霊能真柱』における生死観の基本のみをいえば、死後霊魂はあの世における幽冥界にとどまる。しかもその魂は、日本を守護し子孫を助けると主張している。」
」(『神葬祭大辞典』P52.,安蘇谷正彦「国学者の生死観」より)
 
 安蘇谷正彦氏は「幕末の知識階級に多大な影響を与えた平田篤胤の死後観」(P50)とも書いている。
 
明治政府の「王政復古の大号令」は、国学者の大国隆正、玉松操の示唆・提言により採用された。(『神道辞典』P121)
 
靖国の「英霊論」の背景に「魂は、日本を守護し子孫を助ける」と主張した平田篤胤復古神道を考えなければならない。
 
 
 
調査要綱
岡 熊臣