「天皇は神様だ」としたい人々の憲法改悪案




1947年、5月3日に日本国憲法が施行された。この憲法は戦前の大日本帝国憲法とは異なり、「国民主権原理」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3原則が明確になったすぐれたものであり、その後の日本国民の幸福に大きく寄与するものであった。

あれからすでに70年、我々が「自由と平等」を謳歌し、戦争に巻き込まれていないのは、まさにこの日本国憲法の功績であろう。現在の社会が必ずしも理想的であるとは言えないにしても「自由」でもなければ「平等」でもなく、人権がまるで無い上に「神がかった」バカに支配されなければならなかった戦前に比べればはるかにいい社会が実現したといえる。神戸地震や東北地震でほとんど暴動がなかったのは、日本国憲法の理念や理想が国民に浸透してきたからだ。戦前なら、妙な偏見に支配された人々が、この時とばかりにマイノリティな人たちを虐殺したであろうから。
すべての”神がかり”が不快なものではないが、少なくとも大日本帝国憲法時代に生息していた国家主義的な”神がかり”は理性が通じないという点でも、暴力的であったという点でも甚だしく不快なものであり、しばしば選民思想と相まっておかしげな偏見を形つくったうえに、階層社会を作りやすい構造を持っていた。財閥と藩閥が結託して利権をあさり、富が集中するおかげで貧富の差が今よりはるかに激しかった。山谷や芦谷の貧民窟には、その日の食事にもあぶれる人があふれ、財閥に頼まれて労働運動を潰すことを生業にしているヤクザの親分が国会議員をしていた時代である。5割を超える小作料の結果、百姓は蓄えをすることができなかったので、親たちは泣く泣く娘や息子を売り飛ばし、その困窮につけこむ「人買」が周旋業者.の名で帝国政府の公認を受けていた。

今日、戦前好きな安倍政権が造ろうとしているのは、そういう国であって、この政権になって以来、明治の富国強兵をまねたような政策の結果、貧富の差が驚くほど大きくなってしまっている。しかし安倍によれば、それはまず一部の人を富ましてからその恩恵がすべての国民にいきわたるという作戦なのだという。この作戦の倒錯は、今日までの歴史で「一部の人」が富んだ時代はままあったにしても、富者が自分の富を貧民に分け与えるなどという例がごくたまにしか見当たらないことである。ダマされてはいけない。こうした大掛かりなペテンにダマされるなら戦前に逆戻りするしかない。一部の人が裕福となった後、その富が我々の生活に反映するとすれば、戦前の世界有数の大金持ちが生息していた日本になぜ貧民窟が存在したのか?考えなければならないだろう。
戦前大日本帝国は、アジアの盟主を自認してはいたが、決して人々を幸福にする国家であったとはいえない。むしろ「国家」という得体の知れない何かのために生き、時には死ぬことを強要したのである。アジアのどの国も、軍によって占領され強要される以外には、大日本帝国盟主として認めようとはしなかった。いや、武力で制圧した後でさえ、激しい抵抗が各地で起こっている。ただ科学技術を吸収しただけの成り上がり国家が王者の徳に欠いていることに誰もがすぐに気付いていた。バーンボーンの後に中村明人中将が赴任してこなければタイでは大きな反乱がおこっただろう。中国で、インドネシアで、フィリピンで・・・激しいゲリラ活動が起こり、略奪と強姦をほしいまま行った皇軍への反発から、村々がそれに協力した。皇軍は約400年前朝鮮の田舎で秀吉の軍隊が受けた不服従を再体験していた。だが元はといえば、これも軍縮の中で肩身が狭いと嘆いていた職業軍人たちの国家乗っ取りの結果である。戦争目的を「八紘一宇」だの「大東亜共栄圏」だのという古い神話に単を発するあいまい言葉に託して、国民に対しては暴力的に言論の自由を奪い、教育の自由を奪い、宗教の自由を奪った。なおかつやはり”神がかった”皇軍の一部が暴走してやり始めた戦争に全国民が巻き込まれ、苦しみのどん底に叩き込まれたのは大日本帝国憲法自体にそのような欠陥があったからだ。今日の日本国憲法の方がはるかに理想に近いのである。

しかし、この憲法は施行以来、何度も攻撃を受けてきた。

とりわけ旧帝国で教育を受けた人々や神社関係者にとって不満の種となったのは、「天皇がただの人」であることを前提とした象徴天皇制だった。1986年の『新編日本史』書き換えの際にも、「日本を守る国民会議(現在の日本会議)」の編集者は、天皇の「人間宣言」をめぐって「人間とか神格否定とかは入れたくない」と述べていたが(「神社新報」S61,7,14)、この国にはあの戦争に負けた後も、「天皇は人ではなく、神である」としたい人々が最近になってもまだいるのである。

我々が記憶しておくべき最初の憲法攻撃は、1955年、鳩山一郎率いる民主党によってなされた。鳩山は改憲を掲げて選挙に挑んだが、結果は「革新派」が3分の2を占め阻止された。しかし彼らは7月には「自主憲法期成議員同盟」(会長:広瀬久忠)を結成し、すぐに改正案を提出している。保守政党は55年に合同し、自民党が生まれるのだが、56年には改正を目的とした憲法調査会法を公布している。民間右翼勢力も活発で全日本愛国者団体会議大日本生産党憲法案を発表している。全日本愛国者団体会議が発表した憲法案では、第4条の「天皇元首」とともに第3条には「大日本皇国は、万世一系天皇、皇祖の神勅を奉じて之を統治する」としている。

1964年、7月3日、憲法調査会による最終報告がなされ、1969年、自主憲法制定国民会議が結成されている。しかしこの時代はまだ今のような宣伝はなされておらず、所属議員も50名程度だった。
1969年9月には安倍の祖父である岸信介が「自主憲法期成議員同盟」の会長となると同時に自主憲法制定国民会議の会長にもなっている。自主憲法制定国民会議は「憲法」という機関紙を出し、1972年には「稲葉試案」を出し、やがて角栄の列島ブームの後、1980年8月27日(衆、法務委員会)、奥野 誠亮法相は「憲法改正の促進」を表明した。
このころになると神社本庁の機関紙である「神社新報」もしきりに「憲法改正」をあおるうようになる。神道政治連盟は、「神道を国政の基礎に」を合言葉に「憲法改正」を唱え、これに呼応していたのが、森、奥野 、安倍・・などの極右に位置する自民党の政治家たちであった。結党以来自民党の党是は「日本の伝統を守る」である。ここでいう「日本の伝統」とはすなわち「国体」であった。
かつて獄中の吉田松陰木戸孝允が手紙で語り合った「国体」。やがて1930年代の天皇機関説を攻撃しながら定められた国体明徴は、この国はアマテラスという神のものだと定めた。それこそが自民党のいう「日本の伝統」にほかならないのである。