『上野千鶴子に挑む』を読んで



上野千鶴子にとっての「人生は何か?」というテーマで語れるほど知識のストックがあるわけではない。マルクス主義フェミニズムの挑戦』だの構造主義の冒険』だのという著作を読んではみたのだが、書いてある事は分かっても、書いている事に価値があるとは到底思えなかった。結局は、「不倫は文化である」と自分の行動を正当化した芸能人のように、不倫や不貞、左翼や右翼も好きそうなフリーセックスを正当化しているにすぎないからだ。フロム、構造主義ソシュールジェンダーフェミニズムヘテロセクシズム、ロマンチックラブイデオロギーヘテロセクシャルな、ホモソーシャルミソジニー、エイギェンシー、フェミニスト世界システム論・・・・など、多分「知」に飢えているか、「知」をアクセサリーにしたいか、どちらかの女たちにとっては香ばしいかおりを放つ道具立てなのだろう。これらの分かりにくい言語を使いながら、語り口は軽妙である。マルクス主義の一変形として、その概念を変化させて行く、おそらく彼女のような試みは、ポストマルクスの試みの一つなのだろう。マルクス聖典として見たことさえない我々には理解不能だが、上野千鶴子に挑む』によると、果敢にも「聖典として疑うことを許されなかったマルクス理論の修正をためらわなかった女性たち」がいたのだと憧憬を込めて書いている。この奇形左翼的な試みから生まれたのが、「マルクス主義フェミニスト」という訳だ。20世紀の終わり、マルクス主義は大幅な変更を迫られた。ソ連を中心として世界の3分の1を覆った試みが無残な失敗に終わったことは誰の目にも明らかだったからだ。日本共産党は、「暴力革命」を捨て民族主義的な匂いをさせながら生き延びて来たし、中国やベトナムは市場開放してマルクスの経済学の呪縛から脱した。上野が掲げたマルクス主義フェミニスト」という看板もそうしたポストの一つである。マルクスの著作が無意味な難解さに満ちているように、マルクス主義フェミニスト」も学問のフリをした難解さに満ちている。「ジェンダーとは非対称性を生む権力のカテゴリーであることに自覚的でない研究は、ジェンダー研究とは呼べない」(上野千鶴子に挑む』p131)とはどういう意味で、またなぜなのかさえ分からないわけだが、信者にとっては有難いお経に聞こえるのだろう。多分彼女が出会ったナタリーソコロフ自身がお経の唱え手なのだろうし、彼女たちにとってはマルクス自体がそういうものだったのではないだろうか?この事は上野の慰安婦論にも言える。「(略)・・・歴史家、吉見義明は『朝まで生テレビ』で小林よしのりらに問いつめられ、ついに日本軍関与を正式に証明する文書史料が『ない』ことを認めた。」「防衛庁防衛研究所図書館で発見された文書は、『強制連行』の傍証にはなっても『強制連行』の事実そのものを裏付ける史料ではない、ということがほぼ共通の了解となった」(記憶の政治学)とか、「九三年八月の河野洋平官房長官の『謝罪』発言の原因となった公文書、一九三八年二月二十三日付内務省警保局長通牒は、小林よしのり氏の表現によれば、日本軍の『よい関与』を示唆したもので、その逆を証明しない」(『ポスト冷戦と「日本版歴史修正主義」』)とか、まるで事実関係の狂ったことを書いていても、お経のように聞いている人々には関係ないことなのである。慰安婦問題が理解もできていないというよりも多分彼女たちは、「慰安婦」問題を利用しているだけなのだろう。自身のマルクス主義フェミニズム」の普及のために・・・である。いやこの普及活動自体が反キリストのための最後のあがきなのである。
そして、結局求める世界は、赤松 啓介が描いたような、古い日本のフリーセックス世界なのである。その点で戦後レジームを否定するグループと上野は似ている。アンチキリストという点でも、道徳否定という点でも、キリスト教との父親に反発した上野の方がはっきりしてはいるが。上野が語る父親への反発は、「反キリスト」が生まれるメカニズムを教えてくれている。