悪と戦う時ーこの世の権力構造を考察する




           悪と戦う時ーこの世の権力構造を考察する


例えば、あなたが自分の上司と飲みに行ったとしよう。専務と部長と課長とあなたの同僚とあなたの5人である。専務はあなたを自分の派閥に入れたくて、誘った訳だ。もちろん出世するためは誰かに引き上げてもらわなければならないのであり、専務の腰ぎんちゃくである部長はあなたに暗に派閥に入れば仕事をよしなに企らうことを述べた。もちろん逆らえば、次の人事でどんな報復があるか分からないので、あなたはおとなしく頷いていた。すると場所を替えて飲み始めたキャバクラで、酒癖の悪い部長が女の子の”おさわり”を始めた。その女の子はまだ馴れていないらしくしきりに手を払い、嫌そうな顔をしている。専務も同僚も知らんプリして他のホステスと話し込んでいる。あなたはふと顔をあげた。すると部長に腰に手を廻され、キスされそうになっている女の子と目が合った。見ると涙目だ。ここは仕切りがあるクラブで、他の客やボーイからはよく見えないようにできている。もちろん、おさわりパブではない。

さて、あなたはどうする?

① 見なかったことにする

② 部長に「嫌がってますよ」と注意する

③ 機転を利かせて、なんとか女の子の窮地を救おうとする


日本人で多いのは、多分①だろう。昔不良に電車で絡まれている女性がいたのに乗客は見て見ぬふりをしたという新聞記事を読んだことがあるが、とても日本的だな、と思った。悪を見ても見ぬふりをしがちなのが私たちだからだ。ではなぜ見て見ぬふりをするのか?それは相手が、暴力や権力をもっているからだ。相手に「力」があるからである。それでその力を恐れているので、あなたは見て見ぬふりをするしかなくなってしまう。だから見てみぬふりをする人は、自分でも知らない内に力を恐れ、力の構造の中に組み込まれているのである。
大人になって会社に入る。するとその会社の権力構造の中にがんじがらめにされてしまう。総じて、日本では男に元気がなく、女が元気なのはそういう面があるからだ。つまり、男は権力構造の中にがんじがらめにされ、おとなしくさせられているが、女たちは強固な権力構造の外に身を置いていることが多いからだ。しかしもちろんそれも人によりあれこれだろうが、権力構造の中に生きる私たちはどんどんおとなしい人間になってしまうのである。力に支配されてしまうからである。
では、力の支配から脱するために、自分が権力を握ったら、どうだろうか?例えば会社の社長になるとしたら。しかし、その場合でも今度は会社の力関係がある。どこかの中小企業の社長が元請けである大企業の社員にへいこらする場面は、よくある話だ。かなりの大企業のトップになっても、今度は経団連とか大蔵省であるとか、政治家に押さえつけられてしまう。あなたが会社の社長なら、仕事を回してくれる省庁に例え悪があっても、それを言いだすことは難しい。つまりそういう権力構造なわけだ。では総理大臣になったら、どうか?その場合でも自由ではない。今度は国同士の力関係もあるし、世界国家の権力構造の中に組み込まれてしまう。それにしても安倍のそれは露骨すぎるのは彼が権力に執着しているからだろう。
おそらく現代社会では米国あたりにいる金と力ある一族の長が、もっとも自由な立場なのだろうと思う。つまりもっとも自由にものが言えるわけだ。しかし、その場合でも現代のネット社会ではふとどきな発言をすれば、すぐに広まってしまうだろう。ただでさえ嫉妬されている大金持ちという輩が、変な発言をすればたちまち火がつくだろうと推測できる。だからまあ完全に自由にものを言えるわけではないだろうが、もし彼らが「悪に対して正しくものを言う」なら比較的自由に言えると思う。それでもやっぱり、金持ち同士のつきあい、つまり社交界でなんだかんだと言われてしまうだろうが、その程度で済むとも言える。この問題は一体、世界の支配者は誰か?という事だ。

       権力構造の外から、ものを言う

藤純子主演の『緋牡丹博徒』という映画がある。ある賭場で、お龍さんはその賭場のイカサマを見破り、ヤクザが殺気立つ中で放ったセリフが「早いとこ、賭場のしきたりに従って、けじめをつけておくんなさい」。こうしてイカサマの実行犯は、指をつめるのだが、(相当野蛮や風習だが)、お龍さんは格好良かった。確か筒井康隆あたりが、お龍さんを賛美していた記憶があるのだが(自信なし)、なるほど人気があった理由がよく分かる。はっきりと物を言うからだ。キッパリ、はっきり、悪いことを悪いと言っている。「力の構造」の中に生きていると、つい口の中でモゴモゴ言いがちである。悪人にも、はっきり、きっぱりと言えないのである。そこで言ってくれるとすっきりするのだ。
では、お龍さんはどうやって力の構造から、自由になったのか?ひとつは彼女が小太刀の名手でケンカに強いからだ。つまり、暴力に強いわけだ。そしてもう一つはいかなる組織にも属さない一匹オオカミ=旅の博徒だからである。つまり組織上の「上」がいないのだ。しかしそれでも、どのかの組にわらじを脱ぎ、世話になったりしていれば、その組のボスがたとえ悪人でも、舌鋒が鈍るというものである。

ここで一つの結論を出すことができる。つまり、善を貫き、悪と戦おうとするなら、組織に属さないことが重要である。グループには属したとしても、発言を押させ込まれるような権力構造の中にはいないことが大切なのである。そうしないと言いたい事は言えなくなってしまう。

以前、共産党の新人議員である池内さおり議員が安倍批判をしたのをネトウヨに非難されたあげく、産経あたりに書かれ、後で取り消した事件があった。



それは、党の中で「権力構造が働いた」ということなのだろうと思われる。
日本の権力構造を変えるには、その権力構造の中にいてはだめだ。大学教員には大学教員の立場があり、会社員には会社員の立場がある。権力構造の中の、その立場から言いたい事も抑えられてしまうからである。龍馬が脱藩浪人だったのもむべなるかな。

ところでお龍さんの時代は明治の中ごろの話なのだが、みんな着物で、洋服を着た人が全然いないかったという時代考証だったらしい。なるほど庶民に洋服が普及する前だったのだろう。