礼と礼拝の根本



長い人生の中には、いろいろな事が起こる。
自分でもどうしようもないほど心底、困ってしまうことがある。

そんな時に助け手が現れることがある。

他人に親切にしてもらい大きな恩義を受けた時、自然と頭が下がる。
その人に対して、頭を低くせずにはおれない。
誰でも、自然にそうなるものだ。

私たちは圧倒的な、思いやりの前には、屈せざるを得ない。
それは、その人の徳に頭を下げているのである。

人が心底、感謝をするとき頭を深く下げるのは、そうした道理から来ている。
また、徳あるものに礼拝するのも同様である。
自然に頭が下がるのだ。
その自然を形にしたのが「礼」である。


例えば、転んで膝を怪我したとする。
すると誰でも、その痛い部分に思わず手を当てる。
それは、どこか本能に近い部分で、手を当てると痛みが和らぐことを知っているからだ。
だから、治療のことを昔の人は「手当て」と呼んだのである。
そんな風に、本能に近い部分から、自然に起こる行為を形にする。

これが「礼」の根本である。
「礼」とは、徳への帰順への自然な行為のことである。

「礼拝」も同様である。
そこに存在する徳への帰順なのである。

私がイエスキリストを敬愛するのは、その徳の深さを感じるからだ。
その思いやりは、深くて大きい。
その大きな徳には、頭を下げざるを得ないのだ。

また、私は釈迦や孔子日蓮聖徳太子坂本龍馬にも頭が下がる。
その生き方、述べた事、やろうとした事。その全てを尊敬せずにはおれない。

一方で、私は天皇に頭を下げない。
そこには、天徳がないからだ。
天皇はただの、迷える普通の人である。

歴代天皇にも、また各神社の神々にも礼拝することはない。
そこにあるのは、徳ではなく罪だからである。
濁った負のエネルギーのようなものに、頭は下がらない。

昔、内村鑑三天皇の写真と教育勅語への礼拝を拒んで、石を投げつけられたが、その考えを変えることは無かった。
大西愛次郎という人は、「天皇の天徳なし」と述べて不敬罪で検挙された。時は天皇絶対主義が全盛期にさしかかる頃である。「ほんみち」という宗教の創始者である。
また、創価学会創始者牧口常三郎は、「伊勢神宮には魔物しか住んでいない」と述べて、アマテラスのお札を拝受することを拒否した。

彼らは、何か特殊なわけではなく、自然に感じるものを感じていたのだ。
「礼に欠いた」のではなく「礼を守った」のである。
徳なき者に礼拝するのは、礼を破壊しているのだ。
悪霊に礼拝する者は悪霊の配下となる。