日本軍の体質

1933年から1945年の敗戦までの12年間になされた事 シリーズ

            テーマ:教科書では教えない日本の本当の歴史

  http://kurokango.blog50.fc2.com/blog-entry-49.html の続き 

             1、軍隊内での私的制裁

日本軍の元祖・西郷隆盛がいみじくも示したように「敬天愛人」の思想を持って行動し、天が人を愛するように、日本軍が人を愛する思想を持っていたならば、彼等は今日までも憎まれるような傷跡をアジアに残さなかったであろう。彼等自身がそのような者でなくても、そのような人物に支配され、命令と統制を受けていたならば、軍内においても、日本国内においても、アジア全土においても、無意味に他人を殴ったりする風潮は蔓延しなかったはずである。
一体、日本の軍人は何者であるがゆえに、国民を痛めつけ、子供を殴り、アジアの人達にビンタをお見舞いする権利があると思ったのか?
それは、言うまでも無い事だが、「アジアの盟主」と自惚れ、その盟主国の中でも、「天皇直属の神軍、皇軍である」と傲慢な想いに捉われたからである。
「アジアの解放」が聞いてあきれる。
植民地収奪戦にあけくれた欧米よりも、さらにその姿は醜悪であり、抑圧と欺瞞に満ちているのである。


日本軍はまず、新兵教育においてビンタで上官に絶対服従を叩きこんだ。

これに関しては多数の著作があるが、ここはゲゲゲの水木しげる大先生の著作から・・・

1937(昭和13)年の近衛首相の「東亜新秩序」の声明から水木しげる先生がラバウルに出発するまでがマンガで描かれています。本書の後半では新聞配達員をクビになった水木先生に突然、召集令状がきて鳥取連隊に入隊するわけですが、そこから水木マンガでおなじみの初年兵教育と称する上等兵殿のビンタとの戦いが始まります。

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コミック昭和史〈第3巻〉日中全面戦争~太平洋戦争開始 (講談社文庫)
水木 しげる


水木大先生はこう言っている。

「(ミッドウェー海戦)その頃ぼくは毎日なぐられていた、のみこみが悪いというのか、平気というのか、気にしなかったのがいけなかった。毎日ビンタがさくれつした。」

「軍隊では畳と兵隊は叩けば叩くほどよくなるという信仰があり、ビンタは終わることがなかった。」

「軍隊で一番軍隊らしいのが分隊です。十人の中に分隊長がおり、その下に古兵(こへい)と称する上等兵がいます。これは普通カミサマといわれ、初年兵をなぐるだけで靴下はもちろんフンドシまで洗濯させる者もいます。ぼくは分隊に新入りがこなかったため万年初年兵でした。古兵どのの無理難題に日々苦しめられるのです。ぼくは今でも初年兵の頃の夢をみます。これほど情けなく苦しいものは世界にまずないでしょう。(水木二等兵がこぶしを握りしめ歯を食いしばっている描写)」


軍隊内では私的制裁(ビンタ、鉄拳)が蔓延していたのである。
こうした習慣が日本全土に蔓延し、無意味に子供を殴る風潮が生まれたのである。
そして、それはアジア各国でもなされた。
日本国内において、理由も無く子供達を殴っていた日本の軍人達はアジア各国でも、各地の人達にビンタを張っては、憎まれていた。元日本兵で上官から平手打ちを食らった体験談は枚挙に暇が無いが、それは占領地の民衆に対しても行われていた。そして、それは現地の人にとっては日本人が考える以上に屈辱的なことだったのである。

第二次大戦当時、親日家であったインドネシアのモハマッド・ハッタ氏もこう述べている。

「大勢の人が私の事務所に来て、いとも簡単に人をひっぱたく日本軍の態度について、苦情を述べたてた。殴られた者がかっとなって、短剣を抜いて殴った日本人の腹を突き刺すこともありうるという者もいた。この苦情に関連して、私は日本の軍事政府に、日本軍の将兵が日本人とインドネシア人の習慣の違いに留意するべきだと強調した文章を作成した。日本人の習慣では殴ることは日常茶飯事である。しかしインドネシア人にとっては、頭は人間の体で神聖な場所とみなされている。神聖とみなされている所を殴られると、かっとなって刀を抜いて刺すことも起こりうる。そして、日本軍に対する憎しみが生まれる。したがって、インドネシアにいる日本軍に人間の頭部に対する一般の人たちの考え方をよく教えることが極めて重要である。」
(モハマッド・ハッタ 回想録 大谷正彦 訳 めこん P436から)









          1、バーンボーンの悲劇

                       ━ タイ国の場合 ━
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バンコクには、ルムピニー公園やその他の地域に、バンコクを守備する部隊と、ビルマ戦線に赴く日本の部隊が点在し、駐屯していた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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スリブォン通りには、軍人専用の赤球や、白木屋、白雲荘などの看板があがり、この他にも、下っ端の兵士用の慰安所などが軒並み店を出していた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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威張り散らした気の短い軍人が、言葉も通じないのに「タイ人がなんだ!生意気だっ!」と息巻き、タイ人と殴り合いの喧嘩をおっぱじめ、いざこざが絶えなかった。
或る夕方・・・・一人のすらっとした将校を乗せたサームローが、僕の眼の前で停まった。将校はそのまま料金も払わずにスタスタと歩きだした。そのとたんに、サームロー引きのおっさんが「お金、お金、まだサームロー代払ってない。サームロー代をくれ!」と大きな声で怒鳴りだした。不満顔でじろりと一瞥した将校は、「何をわめいているのだっ!うるさいっ!このやろう!」と、一括したかと思ったその刹那、 あっという間に日本刀を抜き、ガチーンと車輪の音が跳ね返る鈍い音と同時に、サームローのタイヤをスパッと切ってしまった。・・・・・・・・・・・・
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これは僕が目撃したほんの一件に過ぎないのだが、日本軍が駐屯していた、ソンクラー、ナコーンスィータマラート、チュンボーン、ラノーン、バーンボーン、カーンチャナプリー、トンプリーなど、その他の地方でもいろんな問題を引き起こしていた。
 ともすれば、中国大陸と同様に勘違いしがちな日本軍部の規律はかなり乱れていた。威張りちらし、傲慢になりすぎた将兵が、「ここは俺達が占領した領土だぞ!」と、人を小馬鹿にした顔で、「土人が何だ!土民の能無しが何だ!タイ人の馬鹿が何をつべこべぬかすか!」と言った調子で、タイ人を馬鹿にした。大事なタイの風習、文化をも無視し、礼儀作法すら忘れ、平気で失礼な行為を示した。ひどいのは意味も訳も分からぬまま、手を合わせて哀願するタイ人を捕まえて、ビシッとびんたをはつり、ゴツーンと頭を叩いたりした。それに罪もない嫌がるか弱い女性を強引に強姦した事件などが続出した。この他にも、スパイ容疑で逮捕され、半殺しの目に合わされた者も大勢いた。しかし被害を受けたタイ人が警察に駆け込み「助けてください」と訴え、救いを求めてもどうにもならなかった。
 タイは、日本に占領された占領地でも植民地でもなかったはずである。ちゃんとしたタイ国の憲法や法律が維持された独立国である。だが何故か、武力の威力に威厳を張った憲兵隊や、軍部の圧力に押さえられていた。日本からがんじがらめに縛り上げられたタイ当局としては、穏便に話しを進める以外、何とも手の施しようがなかった。被害にあった可哀想な人々はただ泣き寝入りするしかなかった。悪事を働いても、裁判も何の刑も受けずにすむ将校の振る舞いは、日増しに悪くなり、目に余るものがあった

 特にひどかったのは、1942年(昭和17)12月18日に起こったバーンボーン事件だった。事件の発端は、一人のタイの坊主が、捕虜に煙草をあげようとして、日本兵に「煙草をやっちゃいけない」と注意されたが、言葉が通じなかったために、捕虜に煙草をやったのがきっかけだった。兵士は「このやろう」と怒鳴り、ドントゥム寺の坊主のほっぺたに、バシッとビンタを食らわせたのだった。(タイでは、人の頭を撫でたり、叩いたり、ほっぺたにビンタを食らわせたりすると、侮辱したと見なされる。特に僧は国民から尊敬され、大事にされている。)日本の鉄道隊とタイの警官隊との銃撃戦になってしまった。・・・・・・・・・・

 このバーンボーン事件がきっかけとなり、タイ人はついにカンカンになって怒りだした。「ここはタイ国なのだ!何故俺達タイ人を苛めるのだ!威張るなユン!タイ人を馬鹿にするな!」と自尊心を踏みにじられたタイ人の愛国心が瞬く間にタイ全土に広がった。・・・・各地で反日感情の火の手がメラメラと燃え上がった。道を歩いても白目でジロリと睨み、「アイ・ユン」と罵られ、身の危険を感じるようになった。
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『父と日本に捨てられて』  瀬戸正夫著  p115、116より)

欧米なんかよりも自分達からタイ人を解放してあげれば実に喜ばれたであろう。この後、もし中村明人中将が赴任しなければ、タイは今頃最も強力な反日国家となってしまっていたに違いない。