朝鮮人慰安婦の話が載っている戦記、日記、日誌本

朝鮮人慰安婦が出てくる戦記,日誌、日記本
 
 
『ルソン死闘記』 友清高志著 1973年
 
1942年の春、満ソ国境の近くの小城子という町で独立守備中隊が駐屯し、軍専用慰安所があり、そこに「又春」と言う名の朝鮮人慰安婦がいたという。
 
 
『ある日赤紙が来て』 真鍋元之著  1981
 
1942年頃、平陽鎮の軍専用慰安所
つねに満員だったと言う。
 
「私の馴染んだ慰安婦は、職業用の日本名をミサオと呼んでいた。生家は江原道のもっとも貧しい農家だったが、ある日突然村長がやってきて「軍の命令だ。お国への御奉公に、娘を差し出せ」という。御奉公の意味がすぐに分かったので、父母は手を合わせ声の限りに哀号を繰り返したが、村長は耳を貸さない。この面(村)へ8名の割り当てが来たが、面には娘は5人しかいないから、ひとりも容赦はならぬ、とニベもなく言い放つ。村長の背後では、刀を吊った日本人の巡査(警官)が、肩をそびやかせている。・・・・・・」
 
『戦旅の手帳』 伊藤桂一著 1986 直木賞作家 『落日の戦場』『静かなノモンハン』などの作品あり
 
敗戦によって軍票が無価値になったため、只奉公をした事になる。戦争の最大の被害者は戦場慰安婦であり、かつ彼女達の功績も黙殺できない、従って慰安婦の忠魂碑も建てるべきだ、と書いたことがある。
 
欲すのは、看護婦にする、と言うのと、食堂の給仕する、というのと、つまり肉体供与を条件とせず連れて行って、現場についたら因果を含めたものである。逃げる方法はない。
 
蕪湖で、私は有利な有利なポストにいた関係上、なんとなしに朝鮮人慰安婦たちの相談役みたいな仕事?をしていて、・・・・・20人ほどいる女の中で気質の悪いのはいなかった。
 
『兵隊達の陸軍史』 伊藤桂一著 1969
 
・・・・・慰安婦の多くは騙されて連れてこられたのである。
 
支那の著者のいた駐屯地には、兵員600に対して朝鮮人慰安婦が4人いた。
 
関東軍軍隊日記』 長尾和郎著 1968
 
東満の東寧の町にも、朝鮮女性の施設が町はずれにあった。その数は知る由もなかったが、朝鮮女性ばかりではなく日本女性も・・・・・・三畳ぐらいの板の間にせんべい布団を敷き、その上に仰向けにいなった女性の姿・・・・・・・これらの朝鮮女性は「従軍慰安婦募集」の体裁のいい広告につられてかき集められたため、施設で≪営業≫するとは思ってもいなかったと言う。それが満州各地に送りこまれて、言わば兵士達の排泄処理の道具に身を落とす運命になった。・・・・・・
 
赤紙兵隊記』 いまいげんじ著 1987  他の著作 『シベリヤの歌』
 
・・・・いわいる「ピー」と呼ばれる女性達はほとんどが朝鮮娘であった。
 
『戦中派の遺言』 戦中の会編  1979    
 
1942~43 のラバウル
 
日本の女性と朝鮮の女性とは、待遇から料金まで、あらゆるところに差別がありました。例えば・・・兵隊さん相手のは、日本人で3円、朝鮮女性は2円か1円50銭でした。
 
『回想のフィリピン戦線』 鈴木俊雄著 1979 軍医
 
別棟の建物へと入るとベットが6,7台のカーテンで仕切られている。他の外地では朝鮮人が使われていたようだが、ここでは全部比女性だ。
 
 『生ある限りルソンへ』 磯崎隆子著 1984
 
<敗戦直後の捕虜収容所にて>
私達のテントに朝鮮人女性が二人いた。日本軍の慰安婦をしていたと言う。早い時期に捕虜になったので血色もよく、服装も派手で可愛い顔をしていた。
 
『戦魂』 直井正武著 俳人 1973
 
ここの朝鮮人婦人たちがどうした経由でやって来たかは知らないが、狩り出されたということだけは否めないだろう。もっとも、日本人娼妓も高級用として渡ってきてはいたが━。