慰安婦110番

 
ソ連との国境線にいる慰安婦の多くが朝鮮女性であった
 
関東軍━在満陸軍の独走』 島田俊彦著 1965
 
中公新書 P176 
 
41年の関東軍特別演習に際して、関東軍参謀原善四郎中佐は軍慰安婦2万人が必要と計算し、朝鮮側に割り当てたが、実際には8000人が集められた、と言う。
 
 
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従軍慰安婦110番での軍医の証言>
 
軍医 「関東軍女子特殊軍属服務規程」1992年証言78才
 
昭和15年(1940)には関東軍に引っ張られ、関東軍司令部の朝鮮後方部隊で、司令官の家族、補給監部の診察をやらされました。・・・・
関東軍補給監部と言うのがあり、慰安婦の補給の仕事もしていました。鉄道で女達を連れてくるのですが、一両に200人を乗せ、外から見えないようにしました。10両の貨車で2000人が一度に運ばれました。
 
 
実際に来てみたら慰安婦だったと言って泣いておりました・・・と言う
 
通信教育隊 1992年73才
 
黒龍江省富錦で一人の朝鮮人慰安婦から聞いたもので、「『関東軍戦時特別挺身隊』という事でしたが、実際に来てみたら慰安婦だったと言って泣いておりました。・・・・朝鮮人女性は、京城の駅に2000人が集められ、列車に乗せられて、満州の新京に下ろされました。そこで、20人から30人に分けられ、また列車に乗せられ、各地に送られて行きました。
 
 
 
明確に軍が関与し運営した慰安所
 
麻生哲夫 『証言━戦線女人考』 『うわさ』1957年 この著作物の最新版は『上海より上海へ』1993年
 
手記によれば1938年1月2日、軍慰安婦となるべき女性約100人の検診を行った。軍命令として「近く開設せらるる陸軍娯楽所のため目下、其美路沙挫小学校に待機中の婦女子百余名の身体検査を行うべし」というのもであった
 
またこの手記には「これに呼応して民間側にても、江湾鎮の一角に数件の慰安所が開設されるようになった」と書かれており、この慰安所が軍の経営であった事を証明しているのである。
 
さらに手記には
 
「朝鮮及びに北九州の各地より募集せられた連中であった。興味ある事には、朝の婦人の方は年齢の若く、肉体的にも無垢を思わせる者がたくさんいたが、北九州関係の分には既往にその道の商売をしていたものが大部分」 と言う。
 
その数は朝鮮人80人、日本人20人
 
さらにこの記述の裏をとるために証言を集めた千田夏光氏は、田口栄造(仮名)のインタビューでこの100人の女性の内20人を集めたという証言がある。 (『従軍慰安婦』 千田夏光 1978)
 
 
多くの証言から、やはり慰安婦にされたのは朝鮮女性が多くかった事が分かる。
 
 
 
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