韓国人に尊敬された日本人の日記に書かれている事

 
            浅川巧(1891~1931、山梨)
 
浅川巧という人をご存知か?
もちろん日本人である。
そして、併合下の韓国で、韓国の人達に敬われた人物である。
京城郊外の墓地に記念碑が建てられている。
その碑には「韓国の山と民芸を愛し、朝鮮人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」と刻まれている。
最近、「日本は併合下で植林事業をした」なんて言う人もいるが、それを担当し推進したのが、この浅川巧なのである。総督府山林課技師として朝鮮の禿山を緑化に尽力し、また朝鮮民族美術館開設にも関わった。
40才の若さで死んだ彼の人柄を韓国の人達も認めていた事を「韓国の山と民芸を愛し、朝鮮人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」という言葉が教えてくれている。
 
 
その彼には、忌憚ない言葉で書かれた『日記』が残されている。
総督府と朝鮮神社を強く批判している日記である。
そんな人柄だから愛されたのだと思った。
 
「少しくだると朝鮮神社(後、神宮)の工事をしていた。美しい城壁は壊され、壮麗な門は取り除かれて、似つきもしない崇敬を強制するような神社など巨額な金を費やして立てたりする役人等の腹がわからない。山上から眺めると景福宮内の新築庁舎(総督府の庁舎)など実に馬鹿らしくて腹が立つ。白岳や勤政殿や慶会桜や光化門の間に無理強情に割り込んで座りこんでいる処はいかにもづうづうしい。然もそれらの建物の調和を破って意地悪く見える。白岳の山にある間永久に日本人の恥をさらしている様にも見える」(1922年、『日記』)
 
(高橋宗司『朝鮮の土となった日本人━浅川巧の生涯』2002年
 

 
安部房次郎という人もいる
『脈』『大地の遺言』を著した韓国の作家林永春 (1932)が「植民地下の全羅南道で開拓につくした安部房次郎と朝鮮人の人間味あふれる交情」を執筆していた。(95年)
 

 
こういう事を書くと、嫌韓論者は、「そら見ろ、日本人は併合下でいい事をたくさんしたんだ。だから、韓国人は歴史を捏造している・・・」とか言い始めるかも知れない。
だが、こうして個々の人においては、尊敬すべき人もいないでは無いにも関わらず、韓国人に日本への憎悪が存在しているのは、それ以上の大きな罪悪を犯したからである。
 
併合直後の初代朝鮮総督寺内正毅憲兵による武断統治を行い、各地で勃発する独立運動を平定した。ここで「平定した」と書けば穏便だが、要するに運動家を投獄・殺戮したのである。あまつさえ3.1独立運動においてはろくに武器を持たない民衆を「暴動である」として殺害した。
寺内大将は「全ての朝鮮人は、日本の法律に従うか死か、どちらかを選べ」と布告したと言う。
以来総督府は45年の敗戦まで、独立運動家を「不逞鮮人」と呼んで取り締まったのである。1930年代後半になると「日本の警官は朝鮮人を見たら、一応犯罪者としてとり調べる」(『朝鮮の夜明けを求めて』第二部P242)ようにさえなったのである。
やがて、憲兵は廃され警察機構が造られて行った1920年~35年にかけて、土地調査事業や水利組合事業により、土地を奪い、多数の人達を零細な小作農民とした。食うや食わずやの貧乏な朝鮮小作人は粟や麦を主食とした。この時、食べられなくなって日本や満州ソ連に移住した人も多数いたのである。これが今日の在日人達の先祖であり、在日の人の数は1920年には3~4万人、30年90万人ほどであった。一般的にこの時期に来た人達を「強制連行」とは言わない。「強制連行」と呼ぶのは1939年以降、総動員法下で徴用されて来た人達の事であり、およそ70万人~90万人ほどであった。
もし、1937年から1945年の敗戦までにした創氏改名、強制連行、軍慰安婦などが無ければ、あるいは日本人はそれほどは憎まれなかったのかも知れない。
 
日本人が全て悪人では無いと言う事は〔浅川巧の碑〕を壊さず、〔安部房次郎の事跡〕を後世に伝えた韓国の人達がよく知っている事だ。慕われた日本人教師さえいたのである。
しかし、問題はそこでは無い。
もし、太平洋戦争が起こらねば、問題は少なかったのかも知れない。しかし、戦争は始まり、総動員法下では全てが「戦争に勝つため」という名目で、軍の支配を受けた苦しむ日本民族の中にいて、さらに差別、抑圧されていた朝鮮の人達の姿があった。彼らの国土は血の涙に濡れていた・・・