『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』 金一勉 著の正しさ

 


 
 

 
 この上記の「東亜日報」の新聞記事で言及されている「逮捕された女衒の暗躍する背景」はどうなっていたのか?
 
当時の大阪朝日にも、この手の記事は掲載されているが、それはどのような状況だったのか?
 
これを詳しく書いているのが  天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦 (金一勉 著) である。
 
これほど細かい事情を説明してくれる著作物は少ない。
まずは <満州事変と便利屋について> である。
 


満州事変と便利屋について>
 
満州事変の戦端を開いた日本軍が、中国東北3省を手にいれると、活気ついたのは日本国内に沈んでいた”死の商人”たちと、右翼ゴロツキ連中であった。・・・・・・満州の地は日本のよたものや領土拡張主義者や、日本で食い詰めた者が続々とつめかけていた、日本の国策は、満州の石炭、鉄鉱、鉄道、木材などの資源を求める独占資本の進出であり、それを獲得するため軍隊派遣、その後から死の商人が追い、一旗組が追いかけ、さまざまな山師ら、おまけに刑務所を出た者━といった具合に資源略奪と軍隊と山師が続々と続き、そのあとから売春強者が続く。・・・・・・・・・・・日本軍による現地の略奪品の処分や、それのための使い走りや、軍隊用の女性の手引きや、その斡旋、または女を誘拐してきて提供したり、いかがわしい娯楽品の私的調達をするための業者・・・と言ってもよい。まさに部隊のダニのような存在である。それが儲かると分かると、つぎつぎに「便利屋」が湧いてくる。
また一方に、日本軍の周辺には、必ずと言っていいほど兵隊相手の飲食店が作られた。・・・・・
日本軍の大陸戦場での戦法はきまって「討伐戦」という手段であったが、それはとりもなおさず略奪戦に他ならない。
(P25、26)


 
・・・・と満州事変後の様子を描写している。
ここで「略奪戦」と書いているが、日本軍の中には、欲得が少なく、この略奪には参加しなかった者もいた。だが、現地では、略奪品売買の裏家業が繁栄していたのであろう。
 


部隊本部に帰ってくる兵士たちの、”戦利品”というのは中国人邸宅の高級調度品から宝石のはじまって、農民のロバ、豚、馬に至るまで手あたり次第である。・・・・・・
これを処分する役目が便利屋なのだが、ピンからキリまである。・・・・仕官の酒肴を探してくるもの、部隊の前に小さな飲食店を構えている者など・・・
この飲食店は必ずといってよいほど酌婦を置いている。これが夜は兵隊の”慰安”の役目を演じるのだ。


また料亭も続々と満州の主要地につめかけていた。料亭は古くから将校連中の潜在的慰安所となっていたが、作戦も謀略会議も、商社との謀議密談もことごとく「料亭」の奥座敷で行われた。
(P27)


満州事変→満州国建国といった満州乗っ取り景気の様子

こうして日本軍隊の周辺には、便利屋が大繁盛した。・・・・・そこで目をつけたのが日本各地の売春業者たちであった。日本国内ばかりでなく、朝鮮、台湾の売春業者、さては上海やシンガポールにいた日本人の売春業者までが”満州景気”のたよりを聞いて、続々と詰めかけた。・・・戦地では儲けは倍加する。・・・・略奪品のおこぼれがある。これを日本国内に運んでは高価に売りさばくのである。・・・つまり両者は切っても切れない関係になるのだ。と同時に全アジア中の女衒が群がりだした。(女衒とは女を誘拐して連れ出す商売である・・・)
満州謀略にとりかかった日本軍隊に群がった売春業者と女衒たちは、その人肉商品である女体をどこに求めたのか?それは何と言ってもまず”植民地朝鮮”だった。朝鮮を女の誘拐または気安な釣り場にしたのだ。
(P28)

 
「朝鮮を女の誘拐または気安な釣り場にしたのだ」
 
これが上の新聞記事の背景である。
こうして、事件として検挙されたものもあるが、捕まるのはごく一部の朝鮮人の女衒だけだったようだ。
 


 この問題について金一勉氏は、「朝鮮人経営の小規模売春屋や朝鮮人女衒も多くいた」・・・と書いている。それはそうだろう。朝鮮の言葉を話せなければ女性を騙して連れて行くことなどできないのである。どこにでも自分の儲けを優先する悪人という奴はいるわけだ。朝鮮人女衒が連れて来たうら若き乙女は、売春宿に売られて行くのである。

ところが、この後、1941年には関東軍朝鮮総督府が結託して朝鮮女性を大量に狩り集めた、いわいる「関特演」が行われるのである。これをもって政府の関与は明らかとなる。


当時、朝鮮半島では、日本人と朝鮮人は厳然と差別されていた。
ゆえに朝鮮人の女衒,便利屋だけが逮捕され、その背後にいた売春業者(多くが日本人、一部朝鮮人)は、逮捕されないというような事が起こっていたのである。
下の東亜日報の昭和七年の記事は、その朝鮮人差別の具体例である。
 


 
 <差別の実態>
 
朝鮮総督府警務局図書課 『諺文新聞差押記事輯録(東亜日報)』昭和七年発刊
p.462~464より引用

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東亜日報 昭和三年二月一日

普校生と小學生との衝突(論説)


朝鮮普通學校生徒と日本小學生徒との間に衝突が起った。そして朝鮮普通學校生徒一人が傷害致死となったのである。此れが假令少さな事実のやうだが吾人はそれに對して深切なる注意を加へなくてはならぬと云ふことを信ずるのである。


去る月十三日の事であった慶南固城公立普通學校生徒李龍振と云ふ十三歳の小児が学校の帰途固城面城内洞尋常小學校の裏で他の普通學校児童と竹馬に乗って遊び其の竹切れが尋常学校後庭に飛んだので、それを拾ふ為め小學校内に入ったのである。所が其所に居た小學校生徒等が党を作って李龍振を乱打した。李は其まま起つことが出来ず病床に臥すこととなり初めの内は父母も其理由を知らずに医師の診察を受けた結果殴打が原因の病と云ふのが判明することになった。そして固城郡内の医師等の力では到底どうする事も出来ぬことを知った。


其間に小學校長は李龍振の病床を訪問して治療費は幾らでもよいから充分治療するやうにせよと云った。しかし病勢は益々沈重となるばかりで其父母は萬一の僥倖を希ひ晋州慈恵病院に行って見たが薬石の効なく去る二十八日遂に不帰の客となって了ったとのことである。吾人がこの事実を見るに際しそれを単純なる児童間の衝突と見る時にそこにあって甚だ重大なる民族的感情の伏在して居ることを知り得るのである。此の点から見て吾人は此の問題にあっても民族的に抗議する必要を感ずる所である。小學校生徒のしたことであるから彼等は皆十四歳未満とせばそれに對して刑事法規上の責任問題は起らぬのであるから李龍振の死は非常に不憫なことではなるが相對者に對して報復の問題は正式に起ることは出来ぬのである。


しかし吾人は此処に於て固城の人士等と共に問題にせんとするものは小學校生徒等をして朝鮮児童に對して軽侮の考を持たしむる日本人父兄等の無責任なることを聲討し、亦其の教育を掌握した固城面城内洞尋常小學校長及教員諸君の責任を問はんとするのである。彼等が平素にあって其子弟其弟子に對し朝鮮児童に對して敬愛の考を持つやうに訓育する所があったならばどうしてそんな不祥事は惹起したであらう。であるから吾人は聲を高くして彼等の反省を促すと同時に今後一層注意する所あらんことを望むのである。そのやうにするには彼等が自省して相当なる形式の表現がなくてはならぬことを信ずるのである。
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感想

13歳の少年が竹切れを拾うために、ほかの学校に入ったのが、原因で、ぼこぼこに殴られて死んだというのですから、ひどい事件だと思います。

日本人学生の側にも言い分はいろいろあるでしょうし、何か誤解やいきちがいがあったのかもしれませんが、普通は悪口をいうか、最悪のケースでも少し叩いたくらいで終わるはずでしょう、それが起き上がれなくなるほど、または死ぬほど、殴っているわけですから、すごいです。

それで日本人少年たちは逮捕もされず、補導もされず、良心の呵責もほとんど感じなかったと思います。

その当時の日本人と朝鮮人は仲良くしていた、特に問題はなかった、という人も多くいますが、それが表面的なもので、実はどういう状況だったか、分かると思います。

こういう暴力がもう少し組織的になると、関東大震災のときの朝鮮人虐殺のようになるのだと思います。