慰安婦徴集への総督府の関与の証明
軍慰安婦について多くの著作を持ち、サンケイと『正論』にしばしば登場し、右翼政治家に信頼も厚く、自由主義史観研究会の素人歴史研究家達や有名・無名のネット右翼達にしばしば引用されている歴史学者の秦郁彦 氏は、すでに92年には、「軍慰安婦の徴集」に関して、関東軍と朝鮮総督府の大掛かりな直接関与を認めている。
以下その文章である。
(1992年 『正論』 6月号に掲載された論文)
・・・・・・・その後も軍服まがいの服装に軍刀をぶらさげて「軍命令」をちらつかせたり、「いずれ女子挺身隊で徴用されるぐらいなら」と言葉巧みに持ちかける業者や周旋人が横行した。ところが、1941年夏の関特演あたりから朝鮮半島で官斡旋の募集方式が導入されたようだ。
関特演は対ソ戦の発動に備え演習の名目で在満兵力を一挙に40万から70万へ増強する緊急動員だったが、島田俊彦『関東軍』 の記述や千田夏光が主務者の関東軍後方参謀 原善四郎元中佐からヒヤリングしたところでは、約2万人の慰安婦が必要と算定した原が朝鮮総督婦に飛来して、募集を依頼した( 千田『従軍慰安婦 正編』 )
結果的には娼婦をふくめ8千人しか集まらなかったが、これだけの数を短期間に調達するのは在来方式では無理だったから、道知事 → 群守 → 面長(村長) のルートで割り当てを下におろしたという 。
実際に人選する面長と派出所の巡査は、農村社会では絶対に近い発言力を持っていたので「娘達は一抹の不安を抱きながらも ”面長や巡査が言うことであるから間違いないだろう”と働く覚悟を決めて」応募した。実情はまさに「半ば勧誘し、半ば強制」( 金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』 )になったと思われる。
関特演は対ソ戦の発動に備え演習の名目で在満兵力を一挙に40万から70万へ増強する緊急動員だったが、島田俊彦『関東軍』 の記述や千田夏光が主務者の関東軍後方参謀 原善四郎元中佐からヒヤリングしたところでは、約2万人の慰安婦が必要と算定した原が朝鮮総督婦に飛来して、募集を依頼した( 千田『従軍慰安婦 正編』 )
結果的には娼婦をふくめ8千人しか集まらなかったが、これだけの数を短期間に調達するのは在来方式では無理だったから、道知事 → 群守 → 面長(村長) のルートで割り当てを下におろしたという 。
実際に人選する面長と派出所の巡査は、農村社会では絶対に近い発言力を持っていたので「娘達は一抹の不安を抱きながらも ”面長や巡査が言うことであるから間違いないだろう”と働く覚悟を決めて」応募した。実情はまさに「半ば勧誘し、半ば強制」( 金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』 )になったと思われる。
8000人と言えばかなりの数である。
それを総督府が集めたのであり、これは政府としての関与であると言えるであろう。
金一勉氏はこう書いている
今や日本の軍部は・・・・重大犯罪であった女子誘拐および売春行為を公然と認め、・・・・また一方の売春業者は軍の威厳の下に大手を振って大量の朝鮮女性を白昼堂々と連れ出すことが可能となったという訳である。総督府→道庁 → 群庁 → 面(村)事務所 あての伝達により、(白昼どうどう連れ出すことが可能になったのである)。・・・・・・・(P52)
この関特演という名の対ソ作戦準備は、ヒトラーのドイツ軍の対ソ戦開始(1941、6、22)から10日目の事である。日本軍はソ連の背後を脅かしながら、サハリン(樺太)全土とソ連領土一部割譲要求をつきつけるべく虎視眈々としていたのだ。
・・・・・・・関特演の名で増員された30数万の兵隊に見合うだけの慰安婦も急遽必要だったのだ。こうなっては従来のように個々の売春業者に任せておけないとみえて、関東軍司令部の補給担当参謀・原善四郎が飛行機で京城に乗込み、朝鮮総督府総務部に娘2万名の急遽募集を依頼した。(千田夏光『従軍慰安婦』)
当節は軍の要求するものは何でも通るものと相場が決まっていた。このたびの未婚女性”2万名供出”さわぎは、朝鮮全土を振るわせた。
朝鮮での女集めには、だましとおどかしと、おだての三拍子がそろい、そのルートも決まっていた。関東軍から”女の供出”を依頼された朝鮮総督府は、例によって道知事へ命令し、道知事は各郡守へ伝達し、郡守は面(村)長宛に、割り当てていく。そして命令の実施の上でサーベルを効かすために各道警察部→各警察署→巡査駐在所へと下達される。
こうして末端の面長と巡査は、指令されたような真っ赤な嘘を掲げて生娘を集めるのだった。その文句も定まっていた。━「お国のためになる仕事だよ」と半ばか勧誘し、半ば強制した。もし娘達が、それをのがれようと逃げ回るものなら、背負いきれない過酷な穀物供出の割り当てを押し付けて報復する。
そこで娘達は、一抹の不安を抱きながらも”面長や巡査のいうことであるから間違いないだろう”と、働く覚悟を決めて集まる。その仕事というのは、軍隊の被服繕か看護婦手伝いのようなものと思っていた。まさか軍隊の慰安婦にされるとは思っていなかった。
かくして1万人に近い朝鮮の娘が狩り出されて臨時列車に乗せられて北上し、「ソ連国境」地帯の各部隊に配給された。・・・・・・・・原善四郎が語るように「奉天(瀋陽)の駅で出迎えたときは華やかなものでした。」というから、その大がかりさがうかがわれる。
(P57、58)
千田夏光は、『従軍慰安婦 正編』の中で原善四郎(関東軍参謀)に面会し、「連行した慰安婦は八千人」と書いている。そして原に面会した事実は、千田も原も否定していない。この証言は、原から疑義が無かった事から考えても、おおむねそのまま信用できる。
さらに、以下の 長尾和郎氏と 友清高志氏は、彼女達が騙されていた事を証言している。
『ルソン死闘記』 友清高志著 1973年
又ここ ↓ で述べたように慰安婦110番への証言もある。