日本の公娼制度は、奴隷制度であった

<日本の公娼制度とは何か?>


      1、廃娼運動の歴史

明治から昭和初期にかけて、廃娼運動を続けて来たのは、日本キリスト教矯風会救世軍、廊清会などであった。

1926年に当時の警保局長であった松村義一が警察本部会議に
公娼制度の改廃に関する諮問案を提出し、廃娼論がさかんになった。

日本キリスト教矯風会救世軍、廊清会は廃娼連盟を結成し、帝国議会に公娼廃止の法律決議案を提出してきたそれまでの運動から、一転して、今度は地方議会に公娼制度の廃止を訴える請願運動へと切り替えた。

この廃娼運動は一年間に6万人の請願署名が集まった長野県の他、多くの県で行われ、1930年ころには廃娼決議をおこなう県、実施する県が続出した。

決議は

28年には、埼玉、福井、福島、秋田

29年、新潟

30年以降、神奈川、長野、沖縄、茨城、山梨、宮崎、岩手、高知、愛媛、三重、宮城、鹿児島・・・・
など、全てでおよそ23県でなされた。

石川県の公娼制度の廃止の事由書は、公娼制度廃止の理由として次の4点を挙げている。



① 公娼制度は、人身を売買し、拘束する事実上の奴隷制度である事。

② 男女の性道徳を破壊し、淫蕩的気風を誘発し、家庭を傷つけること

③ 花柳病伝播の原因

④ 私娼の発生を促す

(しかし、実施は、過度期の処置として芸者の売春を認可している)



公娼制度は、人身を売買し、拘束する事実上の奴隷制度である」 という認識が多数の人にあったのである。

残念ながら、その後満州事変が起こり、軍部による支配が始まり、廃娼も軍慰安婦の影に隠れてしまうようになるが。


     2、 『吉原花魁日記』 ━  人身を売買し、拘束する事実上の奴隷制

さてでは、実際に「人身を売買し、拘束する事実上の奴隷制度」の中にいた女性達はどのような生活をしていたのだろう?

それが書いてあるのが、 『吉原花魁日記』 である。


 
以降は次ページに





<参考文献>&<参考サイト>

『共同研究日本軍慰安婦吉見義明、林博史
『ほんとはHな日本の歴史』『廃娼唱歌 一名自由廃業娼妓の燈』朝倉幾太郎著
『芸娼妓廃業手続独案内』『社会廓清論』山室軍平
『鬼灯火の実は赤いよ』竹内智恵子著
公娼制度撤廃の是非 諸方面よりの総合的研究』川崎正子著
『婦女禁売論』徳富蘇峰著 廓清会婦人矯風会連合
『女給と売笑婦』『娼妓解放話』
横浜毎日新聞 〔マイクロ資料〕新聞会社〔編〕 国立国会図書館(製作)
1973-1981 1号(明治3年12月8日)~20647号(昭和7年11月30日)
救世軍が吉原で演説を行った際、楼主らに暴行を加えられた事件の記事。「印刷物を芳原に配布しつつ、其趣意を演説したり、此一挙は、彼妓楼主人及び之に付随する醜類を震慄せしめ、遂に暴行を救世軍の人々に加ふるに至れり」。負傷した救世軍側は「私共の相手は断じて彼らではありませんから如何に暴行を加へられても少しも怨みと思はぬ従って起訴しない」と答えている。

群馬県公娼廃止沿革史』狩野平六著 群馬県警察部 1930(昭和5)
群馬県では、1878(明治11)年に県会が成立するとともに廃娼の請願がなされた。自由民権運動の盛んな頃である。1882(明治15)年には公娼廃止の建議が可決されるが、業者の廃業までの6年の猶予期間の間に、業者らによる存娼運動、県知事と業者の癒着など、はげしいせめぎあいが繰り広げられた。

『石つぶての中で モルフィの廃娼運動』ユリシーズ・グランド・モルフィ著 1984.7
アメリカ人宣教師のモルフィは、名古屋に10年あまり滞在し、廃業を望んで駆け込んできた娼妓たちのために法廷での闘いを支援した。
 
『社会廓清論』山室軍平著 東京 警醒社書店 1914
イギリスではじまったキリスト教慈善団体救世軍の、日本での最初の入隊者である山室は、モルフィに指導を受けて東京での廃娼運動を始め、廃業した娼妓をかくまうホームを設立するなど、常に最前線で廃娼運動を行った。序文の「元来此公娼、私娼、海外醜業婦といふ如き問題に就ては、其実際を知る人は、概ね真面目に之を考へる人でなく。真面目に之を考へる人は、概ね其実際を知る人でなく。此二つの者の相合ぬが為に、肝心の問題が解決せられずして、何時迄も存らうとする恐れがある。」は現代にも通じる指摘といえよう。

『廓清会婦人矯風会廃娼連盟報告 昭和4年度』昭和5.
1909(明治42)年から1912(明治45)年にかけて、東京の吉原、大阪の曾根崎、難波と有名な遊郭が相次いで火災にあい、これを機に全廃しようと、廃娼運動は盛り上がる。1921(大正21)年、国際連盟第2回総会で締結された「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」への加盟を要請された日本政府は、日本の娼妓は自由稼業であるとかわしていたが、結局外圧に負けて1925(大正14)年に娼妓の年齢制限を留保したまま条約を批准した。そのやりとりが報道された結果、世論は政府への批判と公娼廃止へと高まり、廃娼決定との噂もとびかうようになる。1926(大正15)年には廓清会と婦人矯風会の連合組織「廓清会婦人矯風会廃娼連盟」が発足。

福井市史』資料編一一、『大阪朝日新聞』昭3・12・18)
昭和二年十一月には福井市はじめ敦賀・小浜・大野・勝山・丸岡・三国町キリスト教関係者が福井市の三秀園に協議会を開催し、「福井県廃娼期成同盟会」の結成を決議した。翌三年五月に廃娼連盟委員長の松宮弥平を迎えて創立大会を開き、規約を決議するとともに廃娼請願運動を行うこととした。そして、同年十二月に「斯して集め得たる請願書の総数は二千四百枚」が県会へ提出された。これをうけて公娼廃止の意見書が、青木清左衛門と高橋長左衛門が提出者となって二一名の賛成者をえて、県会へ提出された。公娼制度は人格ノ尊厳ヲ知ラサリシ封建時代ノ遺風ニシテ、風紀・衛生・教育上有害無益ナルノミナラス、国際条約ヲ無視シ帝国ノ体面ヲ傷クル悪制度ナレハ、速ニ廃止ヲ実現サレンコトヲ望ムと書かれた意見書は、通常県会で満場一致で可決された。県会の廃娼意見書の可決は全国で二番目であり、新聞は「本県の誇り」と報じていた。


<参考サイト>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%A9%A6%E4%BA%BA%E7%9F%AF%E9%A2%A8%E4%BC%9A 
http://mediawiki.blogdns.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%A9%A6%E4%BA%BA%E7%9F%AF%E9%A2%A8%E4%BC%9A 
http://dictionary.goo.ne.jp/srch/jn/%E7%9F%AF%E9%A2%A8%E4%BC%9A/m3u/ 
http://www.ne.jp/asahi/kiwameru/kyo/yuujyo2.htm 
http://blogs.yahoo.co.jp/kurodakango/4884618.html 
http://www12.ocn.ne.jp/~shiroku/nannpa.htm 
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-4a5-01-02-05-05.htm 
http://www5f.biglobe.ne.jp/~rounou/myweb1_081.htm 


論文の要旨
 序章ではまず公娼制度が国家公認の事実上の人身売買制度であることを指摘した上で、本論文の課題として次の2点を提示する。第1は、公娼制度批判が地域社会でどう形成されたかを、遊興が地域の民衆生活に与えた影響と、それに対して地域社会でどのような公娼制度批判が展開されたかに焦点をあてて明らかにすること、第2は、公娼制度廃止に決定的な契機となった国際的な婦人児童売買禁止の動きを国内の廃娼運動の動向とからめて明らかにすること、である。・・・(略)・・・第二章では、廃娼建議の署名数が全国一であった長野県を対象に、1920年代の地域社会で展開した廃娼運動の検討が行われる。大戦ブームによる空前の好景気を反映して貸座敷などでの遊興が未曾有の繁栄を呈したが、それが20年恐慌下でも継続して家計や経営を圧迫し、経営破綻をもたらして社会問題化する。また1920年代半ばには地方都市や農村にも都市文化の影響が波及する。こうした中で始まった長野県の廃娼運動の担い手は①キリスト教会、②婦人矯風会長野支部、③婦人会・青年会・禁酒会などの修養団体であったが、この3者が廃娼を支持する理由はそれぞれに異なっていた。


以上を参考とする。

                       BY くろだかんご