続・公娼制度は奴隷制度であった
2、 『吉原花魁日記』 ━ 人身を売買し、拘束する事実上の奴隷制度
さてでは、実際に「人身を売買し、拘束する事実上の奴隷制度」の中にいた女性達はどのような生活をしていたのだろう?
それが書いてあるのが、 『吉原花魁日記』 である。
さてでは、実際に「人身を売買し、拘束する事実上の奴隷制度」の中にいた女性達はどのような生活をしていたのだろう?
それが書いてあるのが、 『吉原花魁日記』 である。
http://www.fben.jp/bookcolumn/2010/07/post_2593.html からの転載
『吉原花魁日記』 著者:森 光子、出版社:朝日文庫
オビに欠かれている著者略歴を紹介します。
1905年、群馬県高崎市に生まれる。貧しい家庭に育ち、1924年、19歳のとき、吉原の「長金花楼」に売られる。2年後、雑誌で知った柳原白蓮を頼りに妓楼から脱出。
1926年、本書、1927年『春駒日記』を出版。
その後、自由廃業し、結婚した。晩年の消息は不明。
売春街、吉原で春をひさいでいた女性は自由恋愛を楽しんでいたのではないかという声が今も一部にありますが、決してそんなものではなかったことが、当事者の日記によって明らかにされています。
19歳で吉原に売られてから、嘆きというより復讐のために日記を書きはじめたというのですから、まれにみる芯の強い女性だったのでしょうね。
ちなみに、女優の森光子とはまったく無関係です。同姓同名の異人です。
うしろの解説にはつぎのように書かれています。
「怖いことなんか、ちっともありませんよ。お客は何人も相手にするけれど、騒いで酒のお酌でもしていれば、それでよいのだから・・・」
そんな周旋屋の甘言を真に受けて、どんな仕事をさせられるかも知らぬまま、借金と引き換えに吉原に赴き、遊女の「春駒」となった光子。彼女の身分こそ、まさに公娼制度の中にある娼妓であった。
周旋屋に欺されたことを知ったとき、彼女は、日記にこう書いています。
自分の仕事をなしうるのは、自分を殺すところより生まれる。わたしは再生した。
花魁(おいらん)春駒として、楼主と、婆と、男に接しよう。何年後において、春駒が、どんな形によって、それらの人に復讐を企てるか。復讐の第一歩として、人知れず日記を書こう。それは、今の慰めの唯一であるとともに、また彼らへの復讐の宣言である。
わたしの友の、師の、神の、日記よ、わたしは、あなたと清く高く生きよう。
客よりの収入が10円あれば、7割5分が楼主の収入になり、2割5分が娼妓のものとなる。その2割5分のうち、1割5分が借金返済に充てられ、あとの1割が娼妓の日常の暮らし金になる。
一晩で、客を10人とか12人も相手にする。
客は8人。3円1人、2円2人、5円2人、6円1人、10円2人。
客をとらないと罰金が取られる。花魁は、おばさん、下新(したしん)、書記などに借りて罰金を払う。指輪や着物を質に入れて払う花魁もいる。
朝食は、朝、客を帰してから食べる。味噌汁に漬け物。昼食、午後4時に起きて食べる。おかずは、たいてい煮しめ。たまに煮魚とか海苔。夕食はないといってよいほど。夜11時ころ、おかずなしの飯、それも昼間の残りもの。蒸かしもしないで、出してある。味の悪いたくあんすらないときが多い。
花魁なんて、出られないのは牢屋とちっとも変わりはない。鎖がついていないだけ。本も隠れて読む。親兄弟の命日でも休むことも出来ない。立派な着物を着たって、ちっともうれしくなんかない・・・。
みな同じ人間に生まれながら、こんな生活を続けるよりは、死んだほうがどれくらい幸福だか。ほんとに世の中の敗残者。死ぬよりほかに道はないのか・・・。いったい私は、どうなっていくのか、どうすればよいのだ。
花魁13人のうち、両親ある者4人、両親ない者7人、片親のみ2人。両親あっても、1人は大酒飲み、1人は盲目。
原因は、家のため10人、男のため2人、前身は料理店奉公6人、女工3人、・・・。 吉原にいた女性の当事者の体験記が、こうやって活字になるというのも珍しいことだと思いました。貴重な本です。
(2010年3月刊。640円+税)
10円あれば、7割5分が楼主の収入になり、2割5分が娼妓のものとなる。その2割5分のうち、1割5分が借金返済に充てられ、あとの1割が娼妓の日常の暮らし金・・・なるほど、奴隷制度だな、これは。
3、188年、働き続けなければ、借金が返せない!
次も証言である。
http://bungaku.cocolog-nifty.com/barazoku/2010/01/post-cf18.html からの転載
僕は数学の才能はまったくないけれど、祖父は数字に強かったようだ。遊郭の樓主に雇われた暴徒らに重傷を負わされた1ヶ月後に、『娼妓解放裏話』の著者、沖野岩三郎さんが、救世軍の本営に伊藤君(僕の祖父)を訪問すると、頭部へななめに包帯をまいた伊藤君は、しきりにそろばんをぱちぱちいわせていた。
樓主に買われた女性たちが、どんなに毎日男にもてあそばれて働き続けても、借金は減らずに増えてばかりだという計算をして、女たちを自由廃業させて救い出すことが大事だということを数字で示したかったのだ。
「実に驚いた話です。今まで僕のところへ廃業したいからといって救いを求めて来た娼妓の中の158人に、樓主との貸借関係がどうなっているかと聞いた問いに対して、正確に自分の借金がどのくらいあるかを答えられた女は、わずか70人だけでした。
この70人を廃業させたときに、くわしくその貸借関係を調べてみると、一人分の前借金は、平均337円74銭(今どきの人には、現在ならいくらくらいなのかわからないと思うが)、総計で金2万3千6百41円80銭になっていました。
70人の娼妓が悲しい稼業をさせられた、歳月は合計で1百86年10ヶ月の間、肉をひさいで、やっと3百28円55銭しか、前借金を償却できていない勘定になっています。つまり彼女らは平均2年8ヶ月ずつ、淫売をさせられて、1人前、たった4円69銭3厘の借金払いしかできなかったのです。
さんざん淫乱男のオモチャにされて、死ぬほどの苦しい思いをしながら、1カ年にわずか1円75銭9厘、1ヶ月に割り当てると、たった14銭6厘6毛、1日平均4厘9毛弱ずつしか借金が返せないという仕組みになっているのです。
娼妓に自由廃業を救世軍がすすめることを悪事でも犯すかのように思う人たちは、この計算をひととおり見るがいい。今、この70人が自由廃業をしないで、正直に樓主の言いなり放題になって、稼いで前借金のなくなる日を待つとしたらどうでしょう。
1日平均4厘9毛では、実に188年10ヶ月と6日の長い年月を稼げなければならない計算になるのです。
いかに病気をしない女性であっても、娼妓を188年10ヶ月も勤められるはずがありません。どうしたって1日も早く、公娼全廃まで、こぎつけなければならないが、まず今日のところでは、娼妓自身に「自分たちはお金で買われたからだではない」という自覚だけでも与えてやりたいのです。
伊藤君は、もう洲崎に起こった、恐ろしい迫害も、暴行も、とんと忘れてしまったように、熱心に自由廃業のことを考えているらしい。」
いくら働いても借金が返せない仕組みになっていた女性たち。みんな貧しい家の娘たちで、教育を十分に受けられなかったから、樓主の言うままに働き続けたのだろう。
祖父たちの働きもむなしく、公娼制度は昭和32年の売春防止法の成立まで続いたのだから、なんとも情けない話ではある。
「死ぬほどの苦しい思いをしながら、1カ年にわずか1円75銭9厘、1ヶ月に割り当てると、たった14銭6厘6毛、1日平均4厘9毛弱ずつしか借金が返せないという仕組みになっているのです」
一年に2円弱の借金返済しか、できなかった訳だ。
こうして公娼制度がいかなるものであったか?我々は知るのである。
先ページの終わりに掲載した一橋大学大学院博士論文が序章でまず「公娼制度が国家公認の事実上の人身売買制度であること」を指摘しているように、それは長い伝統を持つ日本独自の奴隷制度であった。