李氏朝鮮の身分制

 朝鮮史を紐解くと19世紀の初頭には、身分制度が弱体化している事が分かる
 
 
 
次の奴婢制度の改革が挙げられる、奴婢は主人に納める身貢の負担と身分制の重圧に苦しんでいたが、日本侵略の際に民族的抵抗の一翼を担ったこともあって、戦後には身分解放(免賎)の動きが進んだ。主人に穀物などを納める納粟や戦争であげた軍功などの契機を利用して、良民身分へ上昇したほか、身貢の負担を避けて逃亡する者も多く、奴婢の数は減少した。
1669年にはじめて実施された『奴良妻所生従母役法』は、それまで親のいずれか一方が奴婢であれば子は奴婢身分になると規定した制度を改めて、良民の女を母とすれば奴の子も良民身分に上昇できる機会を与えた。
・・・完全に定着するようになったのは、1731年の事であった。こうしてこの立法にも促進されて、奴婢は一層減少して行った。
 
1755年には、官奴婢の身貢が軽減された。
そして70年には婢の身貢は全廃されるに至った。( 『朝鮮史ー』 P178、179)
 
【庶民作家とハングルの庶民への普及】 
文学も発達し、はじめは金万重のような両班の作家であったが、次第に下級階層の作家が増えた。書堂の普及により、庶民に識字率が増大した事もあって、なお封建道徳に束縛されてはいても、身分的差別への批判、率直な感情や大胆な愛情表現に富んだハングル小説が庶民の間に多くの読者を獲得していった。(『朝鮮史ー』P186)
 
19世紀初頭、世道政治や三政の弊により、国家財政の破綻が慢性化すると、農民と両班のそれぞれで階層化が進んだ。
この時代、庶民地主が登場した。良民から両班になるものも多くいた。
両班も没落して農民化したり、まったく土地を失う者もいる一方で、土豪として権勢をふるう者もいた。
この時代、農民への収奪は激しくなり、小作料も規定をはるかに超え、3分の1から半分に増えた例もあった。(4分の1規定)
こうした搾取に対して、農民による大掛かりな反乱が起こるようになった。1811年の平安道農民戦争などが有名である。1833年には、漢城において「米騒動」が起きた。
 
これに伴い身分制度も大きく変化して行った。1801年には、王室・宮家や中央官庁に属する奴婢が多く解放され、奴婢制度解体の動きは最後の段階に入った。
奴婢・良民の身分上昇の動きも一層進んだため、両班・良民・奴婢の身分制自体は残ったが、身分差別はしだいに弱体化していく事になった。(『朝鮮史ー』P192)
 
19Cの著作として重要なのは、崔漢綺(チェハンギ)の『人政』(1860年)などがある。
これは、士農工商の別なく人材登用する事や、西欧的な立憲政治の採用を説き、鎖国の廃止を主張した。坂本龍馬とほとんど同じ主張であった。
 
18世紀末から、カトリック(天主教)が広まりはじめ、19世紀になると弾圧されながらもキリスト教の平等思想に魅了された多数の下層の人々が入信した。
 
やがて1860年、崔済愚によって創始した東学は、「人はすなわち天なり」の平等思想や「後天開闢」という地上天国の出現を願望する思想に特徴づけられる。大院君によって迫害されたが、やがて広まって行った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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