昔、朝鮮にあった伽耶国にちなんだ名称


古代から密接な行き来があった日本列島と朝鮮半島

そもそも、およそ10万人程度しかいなかった縄文人。そこに金属加工技術と水稲栽培をたずさえて朝鮮半島から渡来したのが弥生人

弥生人たちは自分の生まれ故郷である朝鮮半島南部伽耶国の首長たち(あがたぬし)と連絡をとりながら日本各地に散らばって行ったのだろう。

「うちのおじさん、海の向こうに渡ったんだよ。向こうは雨が多くて、お米がよく育つんだって・・・」
「本当かや?じゃあ、水があふれて穂がなる国だな」
「瑞穂の国ね」
「うん、じゃあ俺たちも行こうぜ」

こんな会話があったかどうかは知らないが、最初期の弥生人が渡来して以来1000年間で約100万人の渡来があったという (埴原和郎「100万人渡来説」 。「倭人」に関しては最古の文献では紀元前2世紀に中国の山海経』『論衡』に登場する「倭人」があるが、これは朝鮮半島に住んでいた。やがてこの「倭人」の名称は日本列島の住人の名称となり、奈良時代の始めには500万人が暮らすようになったという。

最近「在日」の人を攻撃する人がよくいるが、相当な無知というしかない。結局は我々の先祖も「在日」なのである。






われわれ日本人が子供の時から聞かされ、誰でも知らないものはいない海彦・山彦の物語。その山彦と、海のかなたからやって来た豊玉姫の間に生まれたのがウガヤフキアエズノミコト。このウガヤフキアエズと、豊玉姫の妹の玉依姫の間に生まれたのが、カムヤマトイワレヒコで、後の神武天皇ということになる。
 ところが、三韓を遡る数百年前から、南部朝鮮に「伽耶」という高度の文化国があり、韓国固有語で、上伽耶(ウカヤ)・下伽耶(アラカヤ)と呼ばれる兄弟国があったという。
 日本では伽耶に因んだ地名は数えきれないが程多いが、これはいかに古くから両者間に、緊密な交流関係があったかを、雄弁に物語るものと言わざるを得ない。
天孫降臨といえば、天照大神が孫のニニギノミコトを、天降らせるというふうに受け取っていることが多いが、書紀の記述によれば、主催者は高皇産霊尊タカミムスビノミコト)であり、ウガヤの都の『高霊』の二文の間に「皇を産む」の文字を挿入したのが、高皇産霊尊であるとのをみると、この命名も無縁とも思い難い。
 現代語訳 『日本書紀』 宇治谷孟 (講談社) あとがきより。



後期弥生時代の日本の様子について、『漢書』地理志には、「夫れ楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳事を以て来り献見すと云ふ」の記載があり、紀元前後には倭と呼ばれていた現在の日本列島(主として西日本一帯と推測される)が、百余りの小国に分立しており、その一部が朝鮮半島にあった漢の楽浪郡と定期的に通交していたことが記されており、これが日本列島の住民について記した最古の文献資料である。


考古学的な参考:http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_08yayoijidai_no_toraijinn_no_kibo.html