岩倉具視の妄念

1871年(明治4)10月、渡米直前の岩倉具視は、「天皇陛下は天照皇大神からの絶えることのない血統の御子孫であらせられ、従って神性を有するお方であると日本の国民が信じることは絶対に必要なことである。」と英国代理公使アダムスに述べた。(『日本近代思想体系 宗教と国家』)
 
そのため政府はいちはやく1969年(明治2)3月には教導取調局を7月には宣教使という役職をあらたに
設け、国学者を動員して天皇の偉大さやその支配の正当性、およびそれへの崇敬・忠節がいかに重要であるかを説いて回らせた。(『神道の虚像と実像』P171)
 
という。
 
これは会沢安などの「祭政教の一致」(「教」は「教化」を意味する)の原則の実施である(会沢著『新論』)。会沢は記紀神話に基づく忠孝建国、国体維持した日本の伝統にもとづき、万世一系天皇が統治する優越性を説き、国体による国家統一、祭政教の一致を唱えた。これをうけて藤田東湖は国体の尊厳を説いた。この国体思想は後期水戸学の理念として明治維新の志士たちに多大な影響を与えた。
 
維新政府は「5か条の誓文」を発表した3日後(1868、明治元、3月17日)には神宮寺、別当の廃止、仏具の撤去を命じた。これを契機に平田派による廃仏運動がひきおこされた。172
 
維新の大立者の中で唯一キリスト教的な民権論者であった龍馬が暗殺され、明治維新のもうひとつの勢力であった神道信者が中心になったがために日本の国の中核に「国民」ではなく「国体」が居座ることになったのである。そしていまだに犯人が判明していない、龍馬暗殺の黒幕は岩倉に違いないのである。