偽装された戦争(5) 日本軍の責任



日本軍は、アジア各地を占領したが、民生の向上を謀らなかった。向上を謀らなかったというより、現地調達を原則としていた陸軍は各地で「供出」を強要し、民生を圧迫していた。

さてベトナム民衆の支持を失う事件がベトナムでも起った。それが「ランソン事件」である。
1940年6月17日、フランスがドイツに降伏した。これを受けて日本軍は火事場泥棒のように仏領インドシナに南進し始めた。この際、中村明人中将の指揮する第5師団が中越国境を突破し仏守備隊を破り、ランソンを制圧した。「救国の神兵来たる」と狂喜した独立を願うベトナム青年たち。決起して一気にフランスを追い出そうというのだ。青年将校たちの中にはこれを支援しようという計画もあった。ところが東京の大本営はこの計画を「とんでもない」と却下する。
そうこうしている内に独立を叫んでいたベトナム青年たちは仏軍に処刑されて行く。この時中国に逃げた青年たちがベトミンを結成したのである。
「日本は独立運動家をおだてておいて見殺しにした」という噂が広まった。(小倉貞男『ベトナム戦争全史』P19)

この後、日本が支配しチャン・チョン・キム内閣を打ち立てるが、そこで起ったのが「2百万人餓死事件」である。44年から45年にかけて飢饉が起った時、日本が食料を「供出」させたためにその後二百万人が餓死したという事件である。もちろん200万人は確実な数字ではないが、かなりの人が餓死したという。

これをホ・チ・ミンが独立宣言で触れているように、彼らの宣伝材料となった。「フランスも日本もごめんだ」として民衆に共産主義が広まる下地になったのである。米国軍が日本に進駐していた頃、米国は日本を共産化しないように気をくばり、財閥の解体と農地改革を大急ぎでやり、大量の食糧援助を行ったが、大日本帝国の支配にはそうした配慮がまったく無かった。ただ支配し、奪ったのでその間隙にホ・チ・ミンが英雄として浮上したのである。

この構図は実は中国や朝鮮半島でも共通している。
支配があまりに暴虐なので、その反対運動を錦の御旗にして、共産党が伸びて行ったのである。