韓国史の真実ー『東大生に語った韓国史』のあとがき



「訳者あとがき」から *赤はこのブログ作者による

 この本は、韓国の歴史学界の重鎮であり、オピニオンリーダーでもある韓国ソウル大学国史(韓国史)学科の李泰鎮(イテジン)教授が、2004年6月東京大学駒場キャンパスで東大生を相手に講義した内容をそのまま収録した本で、2005年9月に韓国で出版された『東大生に聞かせた韓国史』を翻訳したものである。韓国でもロングベストセーラーになっている。

 この本のポイントは大きく分けて二つある。ひとつは大韓帝国期を中心とした韓国側の近代化へむけての努力、そしてもうひとつは韓国併合の不法性・無効性の問題である。このふたつは日本人の歴史認識の問題を考えるときにとても大切な部分だと思うが、どんな意義があるのか分かりやすく説明しておきたい。

 最近、日本と韓国との距離はどんどん近くなっているが、その分摩擦も大きくなっているように感じる。韓流という名の韓国ブームが起こり韓国のドラマや映画が人気を呼んでいる反面、日本の植民地支配を正当化しつつ韓国の歴史認識を批判する本が数多く出されているし、インターネットの世界に目を移せば韓国批判はとどまることを知らない。少し前まで歴史認識における日本人に対する批判の多くは、日本人は歴史を知らないということだった。しかし今は日本と韓国の歴史をかなり詳しく知ったうえで、日本の植民地支配は正しかった主張する人が増えてきていると思う。そうした人々の論理は、1910年日本が韓国を併合したとき使ったものと全く同じである。つまりその当時の韓国は長いあいだ中国の属国であったので自力では独立を維持するのは不可能だったし、また停滞した社会であったので近代化する意志も能力もなかった、だから日本が韓国を併合することで安全を保障してあげて近代化もしてあげたのだという論理である。

 こうした歴史観を停滞性史観とか他律性史観、あわせて植民史観という。この植民史観は、植民地時代に日本のいわゆる御用学者たちによって莫大な費用と長い年月をかけて体系化された強力なものである。またその当時の日本と韓国に対する西洋人による手記など読み比べてみれば、これは単なる史観でなく事実ではないかと思えるほどである。

 だからといって、韓国人の側から考えれば、自国の歴史を全面否定され植民地支配を正当化されたのではたまらない。解放後の韓国歴史学界にとって、植民史観の克服と新しい歴史観の提示が至上課題となった。その努力の結果として出てきたのが内在的発展論である。これは朝鮮王朝時代後期の韓国社会は停滞していたのでなく貨幣経済の発達や新しい商人層の台頭、マニュファクチャーの発生などに見られるように、内在的に発展していたのだ、資本主義の萌芽が見られたのだという理論だ。だから韓国は日本の植民地にならなければ、あるいは外国の影響を受けなければ、順調に発展して近代化がなされただろう、資本主義が成立しただろうという結論が出てくる。この方向で解放後の韓国歴史学界は発展してきたといっても過言ではあるまい。

 しかしこの内在的発展論、特に資本主義萌芽論は、資本主義の本場である西欧諸国や日本に対しては説得力がない。朝鮮王朝後期が停滞していた社会だとはいえないことや貨幣経済が発達してきていたことなど個々の研究の成果は評価できるが、それを資本主義の萌芽とは見做せないのではないかという意見が大勢を占めている。また外国の影響を受けずに資本主義成立の可能性を論じるのは無理があるという意見も根強い。

 これに対し、1980年代に韓国経済の高度成長に注目が集まる中で、その経済成長の起源を植民地時代に求めようとする植民地近代化論が登場した。韓国が近代化したのは日本の植民地時代のことであり、いい意味でも悪い意味でも植民地支配がきっかけとなり近代化したのだという論理である。もちろんその近代化には、日本人と朝鮮人との厳然とした民族差別があったのは事実だが、それでも近代化の起源は植民地時代だという論理だ。この論理は歴史学界からでなく経済学界から出てきたのだが、具体的な統計数値に基づいて経済的発展を論じられると大枠では認めるしかないわけである。

下線=ニューライトと呼ばれる韓国経済学者のグループが主張し、併合を正当化したい日本の右翼論壇に利用されている。

しかし韓国の歴史学界としてはこの植民地近代化論は日本の植民地支配の正当化につながりやすいので、あまり認めたくない。内在的発展論をもとに植民地支配正当化の論理を根底から崩して大きな歴史的パラダイムを提示したいのだが、植民地近代化論の攻勢にうまく対応しきれないというのが、実状であっただろう。


 日本の歴史学界としては植民地支配を正当化したり美化するわけではないが、植民地時代に近代化がなされたことは事実として認めるしかないので、植民地近代化論という言葉を使わずに、植民地近代という言葉で、植民地における近代化についてマイナスの面も含めて研究するようになってきている。



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 そうした中で出てきたのが、大韓帝国(1897年~1910年)とその中心である高宗を評価しようという動きである。植民史観によって歪曲されたのは朝鮮時代ももちろんだが、むしろ同時代である大韓帝国や高宗に対してがはなはだしいというのだ。植民地支配を正当化したい日本としては至極当然なことだったろう。しかもこの歪曲は、亡国の原因が、日本以外では大韓帝国や高宗にあったと考えたい韓国人に、長く当然のことのように受け入れられてきた。また学界においても独立協会や東学農民戦争など民衆の側からの民主化をめざす動きばかりが研究・評価されていて、それを弾圧した高宗皇帝は無能な守旧派であったという評価が一般的であった。しかし改めて大韓帝国と高宗に目を向け研究すると、近代化へむけての多くの努力と成果が発見され、内在的発展論と植民地近代化論の対立構図に、全く新たな視点を提供することになった。資本主義の萌芽を開港前(1875年以前)に探そうとするのは難しいが、大韓帝国期に資本主義の萌芽を見つけることはさほど難しいことではない。そして歴史にイフはないと言われるが、もしも植民地化されずに大韓帝国が続いていれば、独自に近代化できただろうという可能性を十分に感じられる。外国の影響なくして近代化・資本主義化は不可能だったという植民地近代化論の問題意識を受け入れながらも、内在的発展論の植民地にならなくても韓国は近代化できたはずだという主張も取り入れることができるのである。

 この大韓帝国再評価の流れの中心にいるのが、この本の筆者である李泰鎮教授である。李泰鎮教授は高宗を高く評価する『高宗時代の再照明』(ソウル、太学社2000年)を出版し、多くの論議を呼んだ。その後2004年、高宗をどう評価するのかという問題をめぐって教授新聞で李泰鎮教授を中心に11人の教授による紙上討論がなされ関心を集め、その内容が『高宗皇帝歴史聴聞会』(ソウル、プルンヨクサ2005年)として出版されている。

 この主張は韓国人に対してだけでなく、日本の読者にも大きな知的興奮をもたらしてくれると思う。特に、当時の韓国は近代化する意思も能力もなかったから、日本は韓国を併合し近代化してあげたのだ、というような論理を信じている人にとって、本書の内容は衝撃的であろう。インターネットで植民地支配を正当化するサイトに行くと韓国の併合前の貧相な都会の写真と植民地時代の近代的な都会の写真が比較して掲載されているが、植民地化される前にすでに近代的な都市建設が始まっていたというソウル都市改造事業についての説明と写真は、植民地正当化の論理を打ち崩してあまりある。植民地支配を正当化しようとする人は、よくイザベラ・バードの著書『朝鮮紀行』(講談社学術文庫)から「北京を見るまでソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていた・・・」といったところを延々と引用しているが、その部分だけ引用するのは公平ではないと私は感じていた。例えば同じ本の第三十六章「一八九七年のソウル」P543~544には次のような記述がある。少し長いがそのまま引用しよう。

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 ソウルの多くの区域がなかでも特に《南大門》と《西大門》の付近が文字どおり変貌していた。両わきに石積みの深い運河があり石橋のかかった、狭いところで幅55フィートの大通りは、かつてコレラの温床となった不潔な路地のあったところである。狭かった通路は広げられ、どろどろの汚水が流れていたみぞは舗装され、道路はもはやごみの「独壇場」でなく、自転車が広くてでこぼこのない通りを「すっ飛ばして」いく。「急行馬車」があらわれるのも間近に思われ、立地条件のすばらしいところにフランス系のホテルを建てる構想もある。正面にガラスをはめこんだ店舗は何軒も建っているし、通りにごみを捨てるのを禁止する規則も強化されている。ごみや汚物は役所の雇った掃除夫が市内から除去し、不潔さでならぶもののなかったソウルは、いまや極東でいちばん清潔な都市に変わろうとしている!

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 このような改革がどうやって行われていたのか、日本が併合するまでどこまで改革が進んでいったのかを知りたいと思っていたが、李泰鎮教授のソウル都市改造事業の話を聞いて疑問が氷解した。

 あと高宗は民主化すべき時代の流れに逆行して専制独裁君主として皇帝になったのであり、評価できないという根強い声があることに、一言、申し添えたい。近代国民国家形成の過程では、ヨーロッパ諸国が絶対主義を通過したように、また日本が明治維新を通して日本全国の税金が中央政府に集まる強力な中央集権国家を形成したように、一時期、中央集権型の独裁的政治形態が必要であろう。つまり民主的政治形態を備えた近代国家に至るまでにまずその前提となるような強力な統一国家が必要だということだ。鉄道、道路、工場、銀行などのインフラ整備のため、あるいは近代的な軍隊創設のために、莫大な資金を必要とするからである。事実、大韓帝国は資金繰りに大変苦労しており、借款に頼る部分も多く、そんな中での近代化であり改革であった。その高宗に民主化を目指せなかったと非難するのは、明治の元勲たちに明治維新と同時に議会の開設を目指さなかったと批判するのと批判するのと同じレベルではないかと思う。詳しくは「東北アジア研究論叢」依田憙家・王元編著 白帝社2006年 P95~119を参照されたい。

 この本のもうひとつのポイントは、日本による韓国併合の不法性、無効性である。 この問題については韓国併合がその当時から無効だったのか、それともその当時は有効だったのかをめぐり、1960年の日韓基本条約の締結の際に大きな問題になったし、村山富市首相の発言、石原都知事の発言など問題になったことも多い。韓国側の主張は当初から無効であったということであったが、それを新史料の発見などをもとに補強したのが李教授である。雑誌『世界』の一九九八年七・八月号、一九九九年三月号、二〇〇〇年五・六月号に李教授の詳しい論文が掲載されているし、また二〇〇五年六月号に発表された日韓歴史共同研究委員会の歴史研究では、日韓間の条約問題として報告書を出していて、インターネットから簡単にダウンロードできるので、興味のある方はそれらも参照されるといいだろう。

 私の考えでは、有効説はその当時欧米列強諸国をはじめとする世界から有効だと判断されていたということと、実際に有効である要件を満たしているかどうかということを混同しているとしか思えない。条約というのが両国間の約束であるならば、双方の合意が最大の要件ではないだろうか。この問題で韓国側は一旦合意した後で、あれは脅迫されたことだから無効だとか、細かい要件を満たしていないから無効だとか主張しているように、私は思っていたが少し違うのだ。李教授の主張のポイントをよく見てみると、日本の駐屯軍や憲兵から脅迫されたにもかかわらず、合意自体が成立していない。まず1905年の第二次日韓協約だが、脅迫する中で閣僚8名中4名をやっと賛成させたところで、伊藤博文が6名が賛成したことに捏造し締結させている。高宗皇帝も合意していないし合意が成立したのは全権委任状もない閣僚の一部とだけであった。強制・脅迫にも関わらず合意が成立していないのである。そして主権者たる高宗皇帝が合意せずににオランダのハーグに密使を送るようなことをするので、高宗を強制退位させ、代わりに即位させた純宗皇帝も合意しないので、皇帝を軟禁状態にしておいて署名を捏造したり御璽を勝手に使ったりしてさも皇帝が合意したかのように見せかけて1907年の日韓協約(丁未条約)と1910年の併合条約を締結している。閣僚の一部が合意したとはいえ、大韓帝国の主権者である皇帝とは全く合意が成立していない。それで全権委任状がないとか批准書がないとか書類上の不備や欠格が生じるわけだ。合意の不在が核心であり、書類上の不備や欠格はその状況証拠である。

 最近、高宗皇帝が協商を指示していた、つまり仕方なく合意していたのではないかという説を原田環教授が「第二次日韓協約調印と大韓帝国高宗皇帝」『青丘学術論集』24に発表しているが、それに対して李泰鎮教授は、「1905年保護条約に対する高宗皇帝の協商指示説批判」『歴史学報』第185号別冊で、こうした記録は日本側の事後的な捏造によるものであることを明らかにしている。

 日本側が主張しうるのは条約自体の有効性や合法性ではなく、その当時は条約が有効だと国際的に受け入れられたという事実のみだろう。くわしくは本書を読んでもらいたいと思うが、李泰鎮教授の無効、不成立だという主張は至極当然のことに思える。

 ここで李泰鎮教授の紹介をしたい。1943年生まれ、ソウル大学人文大学国史学科教授。1970年代から朝鮮時代の社会史と政治史に関する研究を主としてきて、特に儒教に対する否定的偏見の克服という観点で多くの業績を残している。これに関しては「朝鮮王朝社会と儒教」という題名で日本でも出版されている。そして1988年から4年間ソウル大学の奎章閣図書管理室長の職にあったことが契機となり、日本の韓国併合に向けての一連の条約において批准書がないことや皇帝の署名を偽造してあるなどの事実を発見して、韓国併合不成立論を提起する一方、高宗時代の自力近代化の努力と成果に関する研究をしている。

 歴史の核心を見抜く洞察力は他の追随を許さないが、優しく素朴な人柄でユーモアもあり授業中も笑顔が絶えない。忙しいので授業中でも新聞社などから携帯に電話が入ったりするほどだが、そんなときは学生に申し訳なさそうに小さな声で体まで縮めて電話を受けている。韓国併合をめぐる授業では、当時の現場の位置関係が分かりにくいだろうということで、学生を連れて徳寿宮をはじめとする現地を直接案内してくださった。私が翻訳をしているときもよく食事に誘っていただいき、翻訳のことから生活のことまで心配していただいた。日本語の訳にも直接、眼を通していただきチェックまでしてくださった。 

 小生の怠慢で、出版が遅れたことをおわびしたい。翻訳の校正ではソウル大学に研究員として来られている都留文科大学助教授の辺英浩氏、ソウル大学国史学修士課程に留学中の市川まりえ氏に協力していただき、また出版にあたっては明石書店の方々、特に兵頭圭児氏に大変にお世話になった。また私が韓国に暮らす中で本当に数多くの方々のご厚意に支えられていることを強く感じる。こうしたすべての方々に心よりの感謝を表したい。