「神国日本」の始まりと終わりの記

 
 
仏教の世界観では、この世は煩悩の汚濁にまみれ、悪魔が跋扈する悪世・蝦夷である。とりわけ11世紀には救いのない末世が来たと考えられていた。
また『法華経』では、世界の中心はインドのどこかにあるという須弥山であり、一方日本は世界の中心から遠く離れた辺土粟散の小島にすぎない。そこには悪人が群れつどい救い無き世界であった。
「第一の天照大神、第2に八幡大菩薩、第三に山王をはじめ3000人の神が・・・」と日本の国土のすばらしい特性を述べた日蓮にしても、その日本の神は仏やそれに仕える守護神である梵天・帝釈に比較して「小神」にすぎず、その神々ももはや地上にはおらず、国土は悪神の棲家となっている」と主張する。(参考:佐藤弘夫『神国日本』P199)
 
しかしこうした仏教の世界観に反発すると共に、日本列島に住むという神々を絶対のものとして見、そこにすむ人々を選民とする神国思想が生まれる。13世紀蒙古襲来を契機とし、「神風が吹いた」→「日本は神々に守られている」とする国粋主義の思潮である。日本の国土は神孫が君臨し、神々が守護する「聖地」だというのだ。
 
鎌倉末期、伊勢の神官に発祥するこの自民族中心の考えは、やがて江戸時代に成長し、明治国家に色濃く引き継がれる。そしてその神々の支配を広げようと占領し、植民地をつくり、そこには必ず神社を造ったのである。
 
しかし、やがて、20世紀中ごろ、狂熱的な神道信者たちの信じる嘘があばかれる日が来た。
 
国をあげて「日本は神国だから必ず勝つ」「神風が吹く」と神国日本が喧伝されていたが、どこまで行っても神風など吹くはずもない。
「神国日本は不滅である」などという観念がまるで虚妄であったことを我々の父母、祖父母は体験したのである。
 
これが「神国日本」顛末記である。
 
よっぽどバカで無い限り、「神国日本」などという戯言をいまさら信じる人などいないのだ。右翼さんはその辺をよく考えることだ。