神社のお祭りが「乱交パーティ」であったことを無視している神道主義者の妄想

      「ハレの日」の正体> について


神道主義者の発想の中には、「神道はすばらしいもの」という妄想着想が存在している。

そのため、「神道はすばらしいもの」を示すための理屈が生まれる。

この理屈は概ね、屁理屈である。

小野祖教は、祭祀を成り立たせている発想の中に神道解明の鍵ありと考えたのである。つまり、祭祀は言葉以上に言葉であり、祭祀が語るところを読みとれば神道がわかる・・・・のだという。http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den092.htm

そこでこんなことを書いている。

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(以上転載ここから~)

「まつり」というやまと言葉の原義は「神に奉(つか)へ仕(つかまつ)る」であることを本居宣長は『古事記伝』で説いている。「まつり」の語源は「たてまつる」の「まつる」すなわち供献する・お供えすることに由来するのである。その「まつる」に継続を意味する助動詞である「ふ」がつくと、「まつろふ」となって奉仕・服従の意味となる。「まつり」は、この「まつる」の名詞形なのである。
さて、祭りにおいては「ハレ」と「ヶ」が重要になる。やまと言葉では日常生活を「ヶ」(褻)と呼び、日常の生命力が枯渇すると「ケガレ」(褻枯れ)となる。そこで神を迎え、神にふれて生命力を振るい起こすためにも「まつり」が必要となるわけだ。神を迎える前には「いみ」の期間がある。積極的に身を清める「斎(いみ)」と、消極的に身を守る「忌(いみ)」の二つがある。禊(みそぎ)の原義は「身滌(みそそ)ぎ」とされるが、禊や悪を払拭する祓いには潔斎(けっさい)の意味がある。潔斎とは、神聖な行事の前に、飲食などをつつしみ、沐浴(もくよく)などをして心身を清めることである。
神道においては、このような浄化の儀礼が重要である。それは大きな儀式の前の斎戒や死の穢れに対する忌みといったいくつかの節制からなる。もともとはすべての信者によって実践されていたが、今日では神職によってのみ執り行われている。祓いは、祓串(はらえぐし)を用いる浄化の儀式だが、これを執り行う権利があるのは神職だけである。祓いの後には、榊(さかき)の若木を「玉串」として奉奠(ほうてん)する。榊とは、収穫の象徴としての聖木なのである。また、神に捧げる歌や踊りや「祝詞」を伴った、米や酒などの奉納が儀式の中核をなす。
さて、「いみ」が終わると、いよいよ神を迎える。「まつり」の本番となり、日常のケ(褻)から非日常のハレ(晴れ)に入る。海や川や野をはじめとする種々(くさぐさ)の味物(ためつもの)をお供えして祈る。日本の古い祝詞には、神への感謝の言葉のみが記されているが、現在では特定の願い事を書き入れることが多い。
(~ここまで)
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(この祓の儀式は、吉田兼倶という詐欺師が、「我が家に伝わっていた秘法」だと言いながら広めたものである。ところがこの詐欺師の子孫がその後の神社の家元として支配したのである。)


しかし、こういう人たちは、その祭りの中身を考えたことがないらしい。21世紀現在では、どこの神社でもやっていないだろうが、昔の神社のお祭りというものは、そのほとんどが、乱交パーティだったのである。

民 俗学者中山太郎はその著売笑三千年史』 (ちくま学芸文庫)や日本巫女史』などで次のように書いている。


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「・・・・徳島県那賀郡宮濱村の東尾神社の祭礼には、下の病気のある女子は、全快するまで何人の男を取ると願込めし・・・それを行う女子は、 誰でも分かるように、腰に白地の手拭を挟んで目印とする。それで腰の手拭を目当に言い寄れば、誰彼の差別なく神に誓っただけの男に許す。・・・・」
「・・・・さらに露骨なる貞操の提供は大分県臼柄町の近村に行われた8月15日の**祭である。これは祭りの夜になると、その村の全ての婦女子は、 必ず三人の男子と関係せねばならぬ義務が掟となっていた。それがために若くて美しい女は掟通りの義務を容易に果たす事ができるも、老いて醜い女は 一人の男すら得られずして、夜を明かしてしまうような悲しい喜劇が繰り返されたという事である。(郷土趣味十二)」
「・・・・茨城県北相馬郡文間村大字立木の、蛟蝄神社の祭礼は、毎年筑波凪が肌寒く吹き始める10月の13、14日の両日に行われる。 ・・・・・行事が終わるとこの祭礼の名物となっている性の解放が公然と展開される。そしてこの事は参詣者各自の信仰から出た事なの で、風紀の上からは苦々しい事ではあるが、警察でも厳重に取り締まることができず、現在でもさかんに行われている。
・・・・既婚の女ばかりか未婚の娘までが、良い婿が得られるという迷信から、惜し気もなくその肌を未知の男の前に投げ出すのである。 ・・・・・昭和の現代にこうした行事が残っているとは、民俗の永遠性が窺われて面白い話である。由来、茨城県には筑波山のカガイと称する、 有名な性の解放祭が存じただけに、こうした祭礼が今にのこった・・・・」
「・・・・東京に近い府中町の国魂神社で行う闇祭も、かなり
露骨な性の取引があった事・・・・京都に遠から ぬ宇治町の闇祭にあっては、異名を種貰い祭と言われただけに、 極端なる性の解放が行われたものである。・・・・」

こうした例は枚挙の暇がないほどである。

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同じく民族学赤松啓介は、その著作である夜這いの民俗学・夜這いの性愛論『非日常の性民俗』『増補・天皇制起源神話の研究』・・・・などで、自分が実行していた夜這いの風習について述べている。夜這いは昭和初期まで続いていたらしいが、これが「ハレの日」の正体なのである。

つまり、日頃思っても実行できない欲情をお祭りの日には開放するのである。

赤松はこう書いている。
「・・・近く昭和初期頃まで、まだ全国に残っていた”夜這い”民俗を皆が忘れてしまったのだろうか?・・・・
なぜ”夜這い”はそれほど隠さねばならないのだろう。私はそうは思わないし、”夜這い”民俗の理解がなくて、村落生活を知るのは無理だ」(P43『夜這いの民俗学』より)」


村の性的民俗も極めて多様で、まったく自由奔放な村もあれば、若衆入りの夜、くじで相手の女を決める村もあり、娘の水揚げも若い衆の自由にさせる村、娘仲間が選んでやる村などいろいろである。(P144)


彼らのいう「ハレの日」とは、ようするに「性の開放」に他ならない。

明治維新以降になると、この<性の開放祭>は次第に廃止され、少なくなった。それは開国したからである。キリスト教的な価値観から見れば、この<性の開放祭>は、悪魔崇拝サバトにほかならないからだ。蛇の交合を崇拝していたお祭りが「交合の祭り」となるのは当たり前の話なのだ。

ゆえに開国して西欧人が来日するようになり、教育がなされるようになるとこうした祭りは次第に減少したのであった。しかし今日でも、男根などの性器信仰が残っており、こうした祭りをすることで、良縁が来るとか安産だとかいう迷信を振りまいている。

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男根祭りは広く海外にも知られている。