<関東大震災朝鮮人虐殺>を隠ぺいしようとする人々


       <関東大震災朝鮮人虐殺>の隠ぺい

関東大震災>の朝鮮人虐殺を隠ぺいしようとする人々がいて、その手のサイトも乱立しています。

たとえばこのサイト http://ccce.web.fc2.com/sinnsai.html では、工藤美代子氏の関東大震災朝鮮人虐殺」の真実』に依拠しつつ、当時の新聞記事を並べて、「震災時に朝鮮人の暴動が起こったので、自衛した」という妄想を並べ立てています。

こう書いています。



    この朝鮮人の暴動に怒り狂った日本人の自警団が
そいつらをとっ捕まえて自衛の 為に殺害した。

 


だそうです。

しかし、よく見ると新聞が「朝鮮人の暴動」を記事にしているのは、関東大震災が起ってから、3日間くらいに集中しています。

たとえば、こんな新聞報道です。


イメージ 1


不逞鮮人1000人が徒党を組んで東京に向かっていて、歩兵一個小隊と戦闘した  小隊は全滅か・・・・だそうです。

まず、こんなことが本当に起こっていたら、その小隊の記録ぐらいありそうなものです。

しかしその手の記録がまったく存在しないのが、この暴動記事です。




(新愛知新聞 大正12年9月4日)


これはどういうことかというと、その頃までは、警察自体が「朝鮮人の暴動が起こった」というデマに惑わされていたのです。

そのためプレスも混乱の中でそのデマを流してしまった。


これについて震災当時警視庁官房主事の座にあった正力松太郎はこう書いています。



   
朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。大地震の大災害で人心が非常な不安に陥り、いわゆる疑心暗鬼を生じまして一日夜ごろから朝鮮人が不逞の計画をしておるとの風評が伝えられ淀橋、中野、寺島などの各警察署から朝鮮人の爆弾計画せるものまたは井戸に毒薬を投入せるものを検挙せりと報告し2、3時間後には何れも確証なしと報告しましたが、2日午後2時ごろ富坂警察署からまたもや不穏鮮人検挙の報告がありましたから念のため私自身が直接取調べたいと考え直ちに同署へ赴きました。
当時の署長は吉永時次君(後に警視総監)でありました。私は署長と共に取調べましたが犯罪事実はだんだん疑わしくなりました。折から警視庁より不逞鮮人の一団が神奈川県川崎方面より来襲しつつあるから至急帰庁せよとの伝令が来まして急ぎ帰りますれば警視庁前は物々しく警戒線を張っておりましたので、私はさては朝鮮人騒ぎは事実であるかと信ずるに至りました。
私は直ちに警戒打合せのため司令部に赴き参謀長寺内大佐(戦時中南方方面陸軍最高指揮官)に会いましたところ、軍は万全の策を講じておるから安心せられたしとのことで軍も鮮人の来襲を信じ警戒しておりました。その後、不逞鮮人は六郷川を越えあるいは蒲田付近にまで来襲せりなどとの報告が大森警察署や品川警察署から頻々と来まして東京市内は警戒に大騒ぎで人心恐々としておりました。
しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうちようやく夜の10時ごろに至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。この馬鹿々々しき事件の原因については種々取沙汰されておりますが、要するに人心が異常なる衝撃をうけて錯覚を起し、電信電話が不通のため、通信連絡を欠き、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるに至ったものと思います。警視庁当局として誠に面目なき次第でありますが、私共の失敗に鑑み大空襲に際してはこの点特に注意せられんことを切望するものであります。        (正力『悪戦苦闘』)                                                         http://1923archives.blogspot.jp/2014/09/blog-post_6.html
「いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるに至ったもの」だそうです。
 


また徳富蘇峰


   
公明正大なる政治の下には所謂(いわゆ)る処士横議はあり、所謂る街頭の輿論はあり。然(しか)も決して流言飛語を逞ふせんとするも、四囲の情態が、之を相手とする者なければ也。
今次の震災火災に際して、それと匹す可き一災は、流言飛語災であつた。天災は如何ともす可らず。然も流言飛語は、決して天災と云ふ可らず。吾人は如上の二災に、更らに後の一災を加へ来りたるを、我が帝国の為めに遺憾とす。
吾人は震災火災の最中に出て来りたる山本内閣に向て、直接に流言飛語の責任を問はんとする者でない。併し斯(かか)る流言飛語―即ち朝鮮人大陰謀―の社会の人心をかく乱したる結果の激甚なるを見れば残念ながら我が政治の公明正大と云ふ点に於て、未だ不完全であるを立証したるものとして、また赤面せざらんとするも能はず。                                                 国民新聞1923年9月29日付)。                            http://1923archives.blogspot.jp/2014/09/blog-post_55.html?spref=tw

 と書いています。



            10月21日の朝鮮人の犯罪記事

後は10月21日の朝鮮人の犯罪記事ですが、これは10月21日に集中しています。

なぜかというと10月20日に司法省が「震災に際し、一部不逞鮮人の輩があって幾多の犯罪を敢行」と発表したからです。(国民新聞1923,10、21)

これは当時の官憲の責任逃れのための発表でした。
官憲は、「朝鮮人暴動」のデマを流し、虐殺をあおったので、それがデマだと分かった9月5日に会議で、「風説を徹底的に取り調べ、これを事実としてできる限り肯定することを努むること」と決議しました。(『現代史資料6関東大震災朝鮮人p80)

つまり、自分たちの失態の隠ぺいを目指したわけです。

だから、司法省はまだ、裁判を終えていないいわば容疑者の段階で、「犯罪者だ」と決めつけるという理不尽な事をしています。さらに犯罪者とされた総員139名の内86%の120名が、氏名不明、所在不明、逃亡、死亡となっており、具体的な氏名と罪名がある者は16名にすぎない。
ところが、この震災後に、引き起こされた日本人による犯罪は窃盗だけで、4409件もあったのですから、研究者である山田昭次氏は、「政治性が無く」「衣食に窮した者が多かったためであろう」としています(『戦争責任研究』第79号、p34)。

それにしても、日本史は隠ぺいが多すぎる。
警察と言えば内務省による敗戦時の戦争資料の徹底破棄が有名ですが、
こうやって腐って行ったわけです。