人の対立を考える

       人の対立を考える

         労働者と資本家

20世紀の社会でもっとも対立的に捉えられていたのは<資本家と労働者>であろう。確かにそこには<搾取>というべき根深い対立の根があった。強欲な資本家たちは、できるだけ儲けを大きくしようとし、一方で毎日汗を流して働いても労働者の暮らしは楽ではない事を理解しなかった。こうしてどの国でも貧富の差が激しい社会が生まれていた。かかる不公正な社会を無くそうと労働運動の歴史が始まるのは必然であったし、そこではブルジョアプロレタリアートは激しく対立していたのである。この対立、嫉妬心と憎悪をエネルギーにして革命の焔を燃やしたのが、共産主義であった。
この場合、ブルジョアプロレタリアートの対立は、事実であっただろう。

しかし資本家もバカではない。労働者を無視しては事業は立ち行かない。一方労働者の側も、会社が潰れてしまっては元も子も無いのである。こうして労働条件の改善が少しづつなされて来た。

我が国のそれは半ば、強制的になされた。ごく一部の一族のみが突出した大金持ちになる財閥制度、そして作物の6割も奪ってしまう地主+小作制度の結果、極端に貧富の激しい社会が生まれていたのである。
戦前から神戸の芦屋や東京の山谷の貧民窟は有名だが、庶民とかけ離れた生活を享受する財閥も有名であった。

日本が敗戦した時、この貧富の差が共産主義化の原動力になる事を研究していた米国は、大急ぎで財閥と地主制度を解体した。結果として日本はその点では比較的に住みよい社会になった。もちろん最低賃金が先進国中で最低であるとか、いう問題はいまだにつきまとう訳だが。今日、安倍政権が円安を誘導したり、再び、貧富の差を拡大するための政策を実行するまでは・・・の話である。このまま進んで行けば、また貧民窟が生まれる事になるだろう。

それはともかく、共産主義のように「共産主義社会にならない限りブルジョアプロレタリアートの対立は続く」というドグマを持つと現状で少しづつ調和に向かう努力が無くなってしまう。ブルジョアプロレタリアートの対立はそのような努力によるのではなく、革命を起こして共産化しなければならないと言う考えだからである。ゆえに世界中で、武器を手に持った「人民戦線」という名のテロリストが生まれ、大使館ジャックやハイジャックをしては流血の惨事を起こしていた。もちろん共産主義社会にならない限りブルジョアプロレタリアートの対立は続く」という考え自体が間違っており、さらにそれを流血の革命によってなそうとする事も間違っていたのである。


さて対立的な問題は、他にも多くあるだろう。


       男と女

男と女もその一つである。
夫婦、恋人・・・本来愛し合っていたはずの男と女が互いに激しく憎しみ合い相争うシーンを我々は体験し、目撃する。それは誰の人生にも少なからず有るものである。この相克関係がどうして生まれたのか?『聖書』は一つの物語りを告げている。
それはこんなシーンから始まる。

           主なる神は言われた。人は一人でいるのは
           よくない。彼に合う助ける者を造ろう。


           人が眠り込むとアバラ骨の一部を抜き取り
           ・・・・・女を造りあげられた。
          
             (創世記2/18-23)

なかなか、含蓄が深い。実際にこうした事が起こったというのではない。『聖書』は象徴言語で書かれているからだ。ここで示されているのは、男と女の基本的関係だろう。男と女は一つのものから生まれたというのだ。

この点において、スコットランドのクリスチャンに伝わるという話も示唆的である。

        神様は、ひとつのパンを割いて、一方を男、もう一方

        を女としました。それゆえに男と女はパンの片われを

        求めるのです

これは、結婚の物語ーー男と女が抗いがたい力によって、引かれ合う理由について説明しているのである。男女は確かに何らかの力によって魅かれあい、愛し合い、結婚する。まるでそれは引力に引かれ合う惑星のようなものだろう。

しかし、男女は愛し合うのと同じくらい憎み合うこともある。それはやはり抗い難い運命のようにやって来る。

失楽園の物語りはこう告げている。


創世記/ 03章 01節
主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」 

女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです

でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」 

蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 

女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。


二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした

その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、 

主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」 

彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」 

神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。
アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」 

主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」 
主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。

お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」 

神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」 
神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。 

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この物語りは、現実の世界で男と女が、まるで運命に見捨てられたかのように、愛に悩み、呪われているように憎み合う運命がやって来るのかを教えている。
人は罪の中に生きているからである。