『日本人の朝鮮観』 征韓論について 近世以降の日本の代表的な人物60人が,朝鮮をどのように語り、書いていたか?


これは、相当な本でしたから、ご紹介

ま、自称愛国者の方は嫌がるんでしょうけど。

征韓論について
近世以降の日本の代表的な人物60人が,朝鮮をどのように語り、書いていたか?朝鮮蔑視やアジア侵略思想はどのように生まれたか?



日本人の朝鮮観 その光と影


あとがき
 この本は、一九九九年に出した『日本の朝鮮侵略思想』(朝鮮新報社刊)と、二〇〇四年一月から二〇〇五年十二月までの二年間、『朝鮮新報』紙上に連載した「人物で見る日本の朝鮮観」を併せて一本にしたものである。
 もともと私は朝鮮・日本関係史の研究を専らにしてきていたが、幾つかのテーマのなかで、日本、朝鮮の両民族が、お互いをどう見てきたかという問題は、長いこと私の関心事ではあった。
 さてこれを具体化しようとする際、どのような様式、そして方法、時期はいつからなどということがあって仲々に難しかったが、試行錯誤の末、その時々の双方の代表的な朝鮮観、日本観をもって中世以降、朝鮮植民地期までの時期を概観してみようと考えた。
 その第一段階が、諸紙に連載した二十八人分に八人分を加えた『日本の朝鮮侵略思想』である。
 私の問題意識のなかに、日本による朝鮮植民地化という強い前提があるので、日本の侵略思想と朝鮮蔑視観をできる限り明らかにしようという思いがあった。私は『日本の朝鮮侵略思想』の「あとがき」で次のように書いた。

 日本人の朝鮮侵略思想・蔑視観の流れで始原的意義を持つのは、『古事記』『日本書紀』中の神功皇后の「三韓征伐」と任那(みまな)支配記述である。
 この「記・紀」の説話が、日本人の中に「朝鮮は日本の属国だった」という伝統的朝鮮観を形成させ、思想的には、その後の日本人の朝鮮観の背骨をなす。
 これが豊臣秀吉朝鮮侵略壬辰倭乱)で、それまでの抽象的・観念的な朝鮮蔑視思想に血肉が通って具体性を帯び、確固不動のものとなる。
 秀吉軍の朝鮮侵略は、七年間の長きにわたり、各十六万の軍隊が二度にわたり上陸敢行されただけでなく、秀吉の本営肥前名護屋には二百六十家以上の諸大名が参集し、厖大な数の家臣団だけでなく、これに造船技術者、兵器製造団群、食糧その他の補給物供給者、輸送業者等々の大小の商人などが含まれるが、このことは、当時、朝鮮侵略に関わった日本人は全国的規模であったということである。この事実は非常に重要な意味をもつ。
 しかも各藩、特に西南諸藩は藩祖顕彰の意をこめて、朝鮮侵略記録を藩校その他で二百数十年間子弟にたたきこみ、参加武士の家では、家伝として壬辰倭乱での先祖の武勇伝を誇大に語り継ぎ、今日に至っている。
 実に秀吉軍の朝鮮侵略は、徳川掌権下の江戸全期を通じ、国学の勃興、復古神道による伝統的な朝鮮観と結合して、日本人に抜くべからざる朝鮮蔑視観を植えつけ、幕末の経済・国防的契機と関連した朝鮮・アジア侵略論に道を開き、明治政権成立以後の朝鮮侵略政策を容易ならしむる思想的土壌となった。
 あるいは江戸期朝鮮通信使の来日をもって、朝・日間の平和友好関係を強調する向きがあるかもしれない。もとより、そのことを否定するつもりはなく、むしろその面での研究はより深めなくてはならないと思うが、しかし、すでに三代将軍家光の頃から、通信使渡来を伝統的朝鮮観と結びつけて朝貢視し、幕府の権威を高めるための意識的操作がなされていたことを看過してはなるまい。新井白石、中井竹山の例は偶然ではない。
 この蔑視観は、ついには朝鮮などは歯牙(しが)にもかからぬ国とまで見るに至る。山鹿素行(やまがそこう)は『中朝事実』の中で中国と日本との文明上の優劣を論じ、「いわんや朝鮮、■爾(さいじ)(■は草かんむりに最)〔小にして、とるに足りない〕」とか、元寇を論じる際には「いわんや高麗・新羅百済、みな本朝〔日本〕の藩臣」と書いて問題にもしていない。
 頼山陽(らいさんよう)は江戸期一番人気のあった文人で、彼の史論、史説は明治維新の原動力となったといわれる位であるが、彼の『日本外史』『日本外論賛』『日本政記』『日本楽記』等々にて、至る所で天皇崇拝を説き、元寇を論じ、秀吉を称揚し、海外侵略を煽った。『日本楽記』には「三韓来る」「百済を復す」「夜叉来る」「封冊を裂く」等の朝鮮蔑視に材をとったものも少なくない。それだけではない。林子平(はやししへい)は『海国兵談』で「朝鮮、琉球などの船は大体に於て支那を模倣し、製造方法は実に簡単である、支那よりも小さいのでそれだけ攻撃し易い」などと書き、『三国通覧藩説』では「此国、太閤征伐の頃までは風儀儒弱」とか「其国の人物はすべて日本、唐山(中国)等の人より壮大にして筋骨も強し。食料も大概、日本の二人の食を朝鮮の一人に充べし。然れども其心機あくまで遅鈍」などと、その蔑視観は甚だしいものがある。
 老中板倉侯の儒者山田方谷(ほうこく)も「内訌を転じて外征となし、志気を外に移さん」と老中に征韓を説くが、後の木戸孝允征韓論が生まれたての明治政権の安泰を図るためであったのに対し、方谷の場合は徳川政権を倒幕気勢から護るためであった。さらに、平野国臣(ひらのくにおみ)は三韓渤海を勢力下に置けといい、真木保臣(まきやすおみ)は「朝鮮・満州」中国を経略することを主張して勇ましい。
 幕末では尊皇家といえどもロシア、英、米を恐れること虎狼の如きものがあり、その代わりに朝鮮や満州を侵略せよとなるのだが、この論の代表者は吉田松陰橋本左内である。左内は日露同盟論を主唱し「日本はとても独立相叶がたく候、独立に致候には山丹〔蒙古〕、満州の辺、朝鮮国を併せ」と日本の独立に朝鮮などの侵略が必要だとし、「魯(ロシア)を兄弟唇歯となし、近国を掠略する事、緊要第一と奉存候」と露骨である。
 幕末勝海舟の日、朝、清の連帯論たる「横縦連合」策が、征韓論に変わるゆえんでもあろう。

 いささか長い引用となったが、これに、明治以降は国是となった朝鮮領有化過程が全明治期を貫き、そして、三十六年間にわたる朝鮮植民地統治が続くのである。
 日本人の朝鮮蔑視と侵略思想が深まってゆくことになるのは当然と言えよう
 ともあれ、以上は現在只今の日本社会の朝鮮蔑視観と侵略思想の根源となるところを私なりにまとめて提示したものである。
 それにしても、中世からの長い歴史の中で、ただに蔑視観や侵略思想の有無だけを問題視するのは、ややバランスを欠いたものになるのではないか、と考えられる。そこで、若干の知朝人士を加えたが、更に言わば善悪二元論だけでは問題は解決しないように思われた。そこで、『朝鮮新報』所載の「人物で見る日本の朝鮮観」で当該人物の朝鮮観について、出来得る限り客観的に資料と事実を提示し、最終的判断は読者に委ねるようにした。
 また、一方の朝鮮人の日本観については、それまでの論稿を整理し、更に大幅に書き加えて、『朝鮮人の日本観──歴史認識の共有は可能か』を二〇〇二年に総和社から出版しているので、朝鮮・日本の両民族が、お互いをどう見てきたかの問題は、この『日本人の朝鮮観』の刊行で、長い間、わだかまっていた問題を私なりに決着を付けた形となった。
 著者としては、この両書を併せ読まれるならば両民族間の相互観がより鮮明になるものと思われるので、出来得れば併読されることが望ましいと思っている。それにつけても、最近の日本マスコミや世論の朝鮮および朝鮮人に対する民族的偏見の根深さはどうだろう。これは、拉致問題や、核・ミサイル問題の生起とも絡む問題でもあるが、一部政治家や言論人のあの度を越した悪罵や感情的な侮蔑観は、その根底にこの本に登場する多くの人物たちと全く同一要素から発していることに気付くのにそうは時間はかからない。
 私はこの本を朝鮮・日本間の真の和解と友好のためにその根源となるものの本質理解の一助となることを願って、浅学菲才を承知で上梓した。
 読者諸賢の厳しいご叱正を賜われば幸甚である。