「善悪の彼岸」というニヒリズムな表現にご注意、人格完成への道



善悪の彼岸」とか「善悪観念を超越する」とか言う言い回しがある。神秘主義的な人はこういう言い回しが好きなのだろう。ニーチェの無意味な詩文にかぶれたニヒリズム信奉者というしかないが、共感できるものは何一つ存在していない。

現代を生きる啓天思想家である私も多くの人から見れば神秘主義の系譜に属するのかも知れないが、こうした考え方は否定する。
善悪観念というものは「彼岸に到達する」とか「超越する」ものではあり得ないからである。

ある人が隣人の家に押し入り、財産を奪い、妻娘を強姦し、息子を殺したとしよう。この凶悪な憎むべき犯罪は「悪」である。

このような考えを持って生きる事が大切であり、善悪は彼岸に到達するよりも、何が善か?を追及しながら生きるべきである。

あらゆる物質的欲望はそれを達成するとさらに強い欲望を生じさせ永遠に満足を得られない。「金が欲しい」「女と性交したい」などの欲望を追及する道には、結局のところ得られるものは何もない。それどころか、肥大した欲望はついには我々を犯罪へと駆り立てるであろう。
しかし、人間にはそれを追及する者の努力に比例して等しく満足を得ることができる道が存在している。古代から続く仏教やキリスト教などに共通し隠れたその道を歩いて行くことが、[道]である。迫害されながらも各街に橋をかけ、村々に池をつくった行基菩薩の道人としての喜びは、彼が積み立てた貯金みたいなものであり、死ぬ時にその心に安らぎをもたらし守ってくれるだろう。人はみな自分のやったことの結果を刈り取らなければならないからだ。

そのためには、日々、自分を省みて、善悪を探求、進んでいかなければならない。現在日本社会はやっと歴史修正主義という悪弊から脱しつつある。戦後戦犯たちが唱えた自己正当化の論理に彩られた大日本帝国の思想は、戦後70年間、この国の政治中枢を支配して来たのである。それは民族の自己正当化の試みと言えるだろう。煩悩に満ちた人々が煩悩に満ちた行動をとって、南京虐殺慰安所での強制売春がなされ、追及される事を恐れて資料を燃やし、とぼけたのである。

目標とすべきなのは、生きる全ての局面で、=思う事、行う事=の全てが善である存在に近づくことである。人は自分でも知らないうちに悪をなすものであり、その悪を見つけ、自分の中から抜き取る。自己省察が必要なのはいうまでもない。悪は幾重にも積み重なり、それを正当化する論理も幾重にも積み重なっている。一度綺麗に刈りとっても雑草のように煩悩が生えてくる。

私の心も世の中の多くの人と同様に、遺伝的、あるいは後天的体験に歪み、ある部分が肥大し、信じられないほど下劣な品性を育てていた。若いころそれを知った私は、知らずに道を歩き始めていた。それは自分との格闘であり、修連である。有る日私は、凶暴な虎を夢に見た。それは私の中のコントルールの利かない野獣の部分なのだ。また有る時、橋の上から川を眺めていると大きな魚が大量に泳いでいた。それは私の心を歪める観念複合を表している。

こうした道のりこそ、神への道のりなのである。ここでいう神とは、神社の神々のことではない。あるいはアミニズムの精霊のことでもない。この宇宙の根底にある思想の主のことである。一個の心がこの宇宙を造り出し、どこかに向かって運行させている。その心の主の事をユダヤ・キリスト・イスラム教の伝統では「創造主」と呼び、儒教は「天帝」と呼んだ。その他「天主」「天道」などという言い回しもある。それはもしあなた方がその気になって、問いかけるなら必ず答えを与えてくださる。

この宇宙はそういう風にできている。

さてついでだから述べておきたいと思っている。日本人は「人格者はおとなしい」というイメージを持っている。しかしそれが必要であればアグレッシブ(攻撃的)であり、決して大人しいばかりではあり得ない。