父母のように愛する・・・・と言う理念

 『維摩経』 の中で文殊菩薩に問われて維摩居士はこう言った。
「・・・一切衆生が病んでいるので、それゆえ私も病むのです。・・・・・例えて言うならば、ある長者にただ一人の子があったとして、その子が病にかかれば父母もまた病み、その子の病がなおったなら父母の病もまたなおるようなものです。菩薩もそのようなものです。もろもろの衆生を愛することは、自分の子を愛するようなものです。
衆生病む時、菩薩病む・・・・」
 
この『維摩経』 のこの句は私にとって忘れられない句である。
かつて私は悩み
「神様、私は何ゆえにこのように生まれながら病んでいるのですか?」
と祈った。
 
それから何年かして又祈った。
「私の育った家庭はなぜ、あんなに病が多かったのか?
また、私が生まれたら病んでいたのは何ゆえですか?」
 
それからしばらくしてある日、ぶらりと古本屋に入った。
本屋の中を歩いていると、頭上で何かが光ったのを感じた。
手にとると中村元 訳 『大乗仏典』 であった。
なんとなく、パラリと開くと
その句が目に飛び込んで来た。
衆生病む時、菩薩病む」
その瞬間私の内から喜びが湧き起こった。
 
このシンクロ・シニティーの中で、菩薩としての自己確証を得た私は、それを機に全ての仏教経典を読み尽くした。
まだ20代の話である
 
ところで、この仏典は「菩薩もそのようなものです。もろもろの衆生を愛することは、自分の子を愛するようなものです」と述べて仏教における人格の成長が、他人に対して「子を愛す父母のようになる事」である事を明かしている。
 
そう言えば「上杉鷹山の記事」を書いた時:訪問した人が
 
受け継ぎて 国の司の身となれば 忘るまじきは 民の父母
 
という歌を教えてくれた。
自分はこれから民の父母になるのだ、と言う決意と心情を込めた歌である。
そして

「“理想的な父母”の立場に立つ事が、リーダーとしての条件であることを、この時代の日本で悟っている事が非常に驚きです。」とコメントされている。
 
上杉鷹山儒教徒であったが、儒教でも仏教でも「他人に対して父母のように思う事」が道として語られているのが面白いところである。
このコメントをくれた人は、統一教会の人である。
統一教会では「父母の心情、しもべの身体」が理念として教えられている。
人々に対して父母のような気持ちでいて、しもべのように奉仕せよ、と言うのである。
それはリーダーとして必要な条件である。
もちろん、リーダーの条件として他にもいろんな能力や人格が必要だろう。
 
 
もしこの理念を身に着けるならば、いずれは統一教会の食口達が世界のリーダーとなって行くであろう。
もし彼らがこの理念を身につける事ができなくても、この理念自体は全ての高等宗教の要髄であるがゆえに、今後の世界の指導理念となるであろう。