日ユ同祖論の出発点
「日ユ同祖論」を知らない人のために少し解説しておこう。
紀元前8世紀。古代イスラエルは二つの国に分かれていた。
北イスラエルと南ユダだ。
以来、300年間はそこにいたらしいのだが、それ以後どこに行ったか、分からなくなった。
彼らを「失われた北イスラエル10部族」と呼ぶ。
世界史の中の一つの謎とされており、考古学、歴史研究者に夢とロマンを提供して来た。
さて本格的探求がはじまる前置きの時代を見てみよう。
ルードベック
ノーベル賞で有名なアルフレッド・ノーベル(1833~1896)の先祖である。
ケンペル
ドイツの医者であるケンペル(1651年 - 1716年)は、このルードベックの講義を聞いて日本行きを決意したのである。つまりは 「日本人は失われた北イスラエル10部族の子孫ではないか?」 という疑問を持って彼は来日したのであった。そして死後出版された『日本誌』の中で 「この民族は疑いようもなくバビロン諸島人の一部が流れついたものである」 と述べている。
ドイツの医者であるケンペル(1651年 - 1716年)は、このルードベックの講義を聞いて日本行きを決意したのである。つまりは 「日本人は失われた北イスラエル10部族の子孫ではないか?」 という疑問を持って彼は来日したのであった。そして死後出版された『日本誌』の中で 「この民族は疑いようもなくバビロン諸島人の一部が流れついたものである」 と述べている。
ケンペルの著作は各国に翻訳され、ディドロの『百科全書』の日本関連項目の記述が、ほぼ全て『日本誌』を典拠としたことから、知識人の間で一世を風靡し、ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューらも愛読したという。
約140年後に日本に渡った有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトもケンペルの影響を受け、その著書でこの同国の先人を顕彰すると共に 「日本人は失われたイスラエルの末裔かもしれぬ」 と控えめに述べていた。
ベッテンハイム
1846年、家族と共に琉球王国(沖縄)に上陸し、開拓伝道に生きたB・ベッテンハイム(1811~70、英国教会)もルードベックやケンペルの本を読み 「はるか昔に東洋に消えたとされるイスラエル10部族の足跡をたどる」 ために来日し、琉球で暮らしながら 「日本人は消えた10部族である」 と確信するようになったと言う。
(『英宣教医ベッテンハイム――琉球伝道9年間』より)
これが日ユ同祖論の開祖であるN・マックレオドに到るまでの同祖論世界史の流れである。1876年に『日本古代史の縮図』を刊行したスコットランド人のノーマン・マックレオドもまたケンペルやベッテンハイムの影響を受けていたと考えるべきである。
さて次回の記事はマックレオドについて
そして日本考古学会の「民族のルーツ」の探求を伝えよう。