コロボックル・アイヌ論争の後に・・・
これに対してHVシ-ボルトやJミルン(日本地震学育ての親)が反論し、いわゆる「コロボックル・アイヌ論争」に火がついた。しかしこの論争の焦点は、日本民族の先住民は誰か?と言うもので、いずれにせよこの先住民を後からきた現日本民族の先祖の手で 駆逐 したという大要においては一致していた。
では、その後から入って来た民族はどこから来たのか?
では、その後から入って来た民族はどこから来たのか?
いろいろな説があるので少し見てみよう
大正時代、清野謙次らは人骨の研究から『日本原人論』を唱えた。つまり旧石器人がそのまま日本民族の先祖だと言うのである。しかしこれは根拠に乏しく多様な反論がなされた。神話、伝説、民話、儀礼などの比較研究によって民族の原郷を探す方法が文化人類学、民俗学によって採られて来た。津田左右吉、鳥居竜蔵らがさまざまな説を打ち立てた後、民俗学者柳田国男と折口信夫はシンポジウム「海上の道」(昭和36年)で日本文化の原郷を南方であるとした。
海外との交流がすすむにつれ、語彙(ごい)や文法の研究により、言語学的アプロ-チがはじまるのは必須といえる。朝鮮語と比較したW・アストン、琉球語のb・チエンバレン、アイヌ語のJ・バチェラ-などの研究の後、金沢床三朗の『日韓両国語同系論』(明治42)などが出、アリアン語やインド・ヨ-ロッパ語との比較研究もなされた。その後もさまざまな説が出たが、北方説や南方説に対して昭和初期、亀井貫一郎が「騎馬民族説」を打ち出した。亀井の所論は説得力に富む壮大なもので、日本民族の先祖はツング-ス系モンゴロイドだとした。
その後昭和28年、江上波夫らによるより画期的な 「騎馬民族征服王朝説 」 が提唱された。昭和42年の「シンポジウム日本国家の起源」で江上は、南朝鮮から北九州への騎馬民族の侵入が4C前半になされたと言っている。しかしむろんのこと江上説への反論も多く、以後これらの論争の決着は今日でもついていないのである。
日本民族の祖先はどこからきたか?北からか、南からか、西からか、民族のル-ツは依然として謎に包まれている・・・・。
海外との交流がすすむにつれ、語彙(ごい)や文法の研究により、言語学的アプロ-チがはじまるのは必須といえる。朝鮮語と比較したW・アストン、琉球語のb・チエンバレン、アイヌ語のJ・バチェラ-などの研究の後、金沢床三朗の『日韓両国語同系論』(明治42)などが出、アリアン語やインド・ヨ-ロッパ語との比較研究もなされた。その後もさまざまな説が出たが、北方説や南方説に対して昭和初期、亀井貫一郎が「騎馬民族説」を打ち出した。亀井の所論は説得力に富む壮大なもので、日本民族の先祖はツング-ス系モンゴロイドだとした。
その後昭和28年、江上波夫らによるより画期的な 「騎馬民族征服王朝説 」 が提唱された。昭和42年の「シンポジウム日本国家の起源」で江上は、南朝鮮から北九州への騎馬民族の侵入が4C前半になされたと言っている。しかしむろんのこと江上説への反論も多く、以後これらの論争の決着は今日でもついていないのである。
日本民族の祖先はどこからきたか?北からか、南からか、西からか、民族のル-ツは依然として謎に包まれている・・・・。
つまりまだ分かっていないのである。
しかし、賢明なる読者はすでに答えを察知したはずである。