日ユ同祖論記事━まとめ

       日ユ同祖論記事━まとめ
この民族の神話や習俗、民族のルーツに関して興味を持っている人がどのくらいいるのか?は知らない。
私はいつからこの疑問に取り組んで来たのだろうか?
はっきり言えるのは、32歳の時である。
祈りにおける、神様との対話の中で私はこう述べた
「・・・もしそうであるなら、この民族は北イスラエルの子孫であるに違いない・・・」
こうした対話と啓示の有様を現代の文学は描く事ができないし、将来も難しいに違いない。この宇宙の中心部に発した疑問は、いろんな処から返ってくるのだ。
例えば書物。
例えば他人の口
例えば夢や幻の中で
例えば閃きの中で
偶然ではない偶然の中で神は答えられたもう
 
こうして神様との対話の中で「日本民族は北イスラエルの子孫である」と知った私は、その証拠を探し始めた。
その過程自体が導かれたものであった。
 


神話の伝播
修正削除 移動 : http://blogs.yahoo.co.jp/kurodakango/2788225.html
2011/3/30(水) 午後 6:20日ユ同祖論人類学と考古学  Yahoo!ブックマークに登録
 
神話学者・吉田敦彦氏の『世界の始まり物語』によると、日本のアマテラス神話とよく似たモチーフが、イラン系オセット伝説に見られると言う。
この話は大女神と河をはさんで向き合っ男神が、岩部の岩に女神の子を産ませるというお話である。
 
これと良く似ている日本神話のアマテラスとスサノヲはある時天の安河という河をはさんで向き合い、その時5柱の神が産み落とされたという。
 
オセットのソフラン誕生と日本の日の御子誕生神話がなぜ似ているのかはなぞである。
 
私の考えでは
   この地方から一個の民族が流れてきて日本に住み着いたのではないか?と考えるが
 


 
カレンの伝説 修正削除 移動 傑作(0)
2011/3/30(水) 午後 6:45日ユ同祖論人類学と考古学  Yahoo!ブックマークに登録
 
タイとミャンマーにまたがりカレン族が住んでいる。
 
カレン人は日本人とよく似たわらじや下駄で知られており、さらに『倭人伝』に記録されている貫頭衣を現代まで着ている事でも知られている。『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は3世紀当時の日本人のスタイルについて詳しく記録しており、「婦人は中国の単被のようで中央に穴を開けたものを、頭を貫いて衣(き)ている」と述べている。カレン人は今でもそのままの服装である。その他、竹と板とを組み合わせた簡単な機織、楔(くさび)で張った太鼓、小魚を掬(すく)う三角竹網(さんかくたけあみ)、装身具などにもカレン人には古代の日本と似た文化が多いのである。
 
 
 
                  鳥居
さらにタイには日本の鳥居の原型と思われるものが存在している。鳥居はその形式に多少の違いはあるが、北の満州族から西はプータン、インドまで広く分布している。タイのアカ族のものは、素朴な形式の上に木製の鳥の像が乗せられている。同じ木の鳥は大阪の池上遺跡からも出ている。日本の鳥居やインド、サーンチーの三段鳥居の源流ではないかと思われている。
 
 
                   日本米
弥生文化水稲と共にやって来たが、その日本米(ジャポニカ種)の故郷と目されているのがタイからミャンマーにかけての山地である。そこでは細長いタイ米(インディカ種)ではなく丸々としたジャポニカが作られている。
マレー語で水田を「サワ」と言うが、日本でも水田に適する湿地帯をサワと呼ぶのは語源が同じなのではないか

                    伝説
カレンの歴史を伝える語り部である酋長は、「その祖先はバビロン人でその滅亡と共に大移動を続け、朝鮮、日本にまで移住した」と言う記録を持っている。(『日本人のル-ツ』加治木義博著より)
もし日本民族とカレン人が同じ源流にあるのだとすれば、日本民族の先祖もまたバビロン人であると言えるであろう。
カレン人は彼らの言い伝わる歴史によると、バビロンから移動し朝鮮半島に入った後、中国の江南に行ったが、ここで圧迫されたのでビルマ、タイに逃げたと言う。
これは中国の正史にもちゃんと記録されている。正史によると、前漢を乗っ取った王奔(おうもう)は、高句麗を討ってその農民を江南に強制移住させている。農民は当然種子や技術も持っていく。これがカレン人である。日本の米や文化に近いものが江南にあるのも当然である。
同じ米や技術があるから「日本民族の源郷は中国江南地方ではないか」という説もあるのだが、すでに見て来たカレン人の足跡からこれは説明できる。
 
ではカレンと共通の先祖がいるとして、バビロンから来たとするとその先祖は何者だったのか?
 



 
日ユ同祖論の出発点
 修正削除 移動 傑作(0)     http://blogs.yahoo.co.jp/kurodakango/3827422.html
2011/5/18(水) 午後 3:51日ユ同祖論人類学と考古学  Yahoo!ブックマークに登録
 
 「日ユ同祖論」をまるで知らない人のために少し解説しておこう。
 
紀元前8世紀。古代イスラエルは二つの国に分かれていた。
イスラエルと南ユダだ。
現在のユダヤ人はこの南ユダ王国の子孫である。
 
イスラエルは前722年にアッシリアの侵略によって滅びた。
その時、北イスラエルの民の多くが、アッシリアに連行され、捕囚として生活するようになった。
以来、300年間はそこにいたらしいのだが、それ以後どこに行ったか、分からなくなった。
 
彼らを「失われた北イスラエル10部族」と呼ぶ。
 
世界史の中の一つの謎とされており、考古学、歴史研究者に夢とロマンを提供して来た。
かつてスコットランドにも「スコットランド人=北イスラエルの子孫」説が存在していた。
 
さて本格的探求がはじまる前置きの時代を見てみよう。
 
                 ルードベック
17世紀、スウェーデンのオーロフ・ルードベック(1630~1702、科学者、ウプサラ大学)が 「日本人を四散したイスラエル十二支族の一つである」 と主張した。
ノーベル賞で有名なアルフレッド・ノーベル(1833~1896)の先祖である。
 
武田龍夫『物語 スウェーデン史 ──バルト大国を彩った国王、女王たち──』新評論 101~102頁)

                    ケンペル                 
ドイツの医者であるケンペル(1651年 - 1716年)は、このルードベックの講義を聞いて日本行きを決意したのである。つまりは 「日本人は失われた北イスラエル10部族の子孫ではないか?」 という疑問を持って彼は来日したのであった。そして死後出版された『日本誌』の中で 「この民族は疑いようもなくバビロン諸島人の一部が流れついたものである」 と述べている。
 
ケンペルの著作は各国に翻訳され、ディドロの『百科全書』の日本関連項目の記述が、ほぼ全て『日本誌』を典拠としたことから、知識人の間で一世を風靡し、ゲーテ、カント、ヴォルテールモンテスキューらも愛読したという。
 
                   シーボルト
約140年後に日本に渡った有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトもケンペルの影響を受け、その著書でこの同国の先人を顕彰すると共に 「日本人は失われたイスラエルの末裔かもしれぬ」 と控えめに述べていた。
 
                  ベッテンハイム
1846年、家族と共に琉球王国(沖縄)に上陸し、開拓伝道に生きたB・ベッテンハイム(1811~70、英国教会)もルードベックやケンペルの本を読み 「はるか昔に東洋に消えたとされるイスラエル10部族の足跡をたどる」 ために来日し、琉球で暮らしながら 「日本人は消えた10部族である」 と確信するようになったと言う。
 
(『英宣教医ベッテンハイム――琉球伝道9年間』より)
 
これが日ユ同祖論の開祖であるN・マックレオドに到るまでの同祖論世界史の流れである。1876年に『日本古代史の縮図』を刊行したスコットランド人のノーマン・マックレオドもまたケンペルやベッテンハイムの影響を受けていたと考えるべきである。
  
さて次回の記事はマックレオドについて
そして日本考古学会の「民族のルーツ」の探求を伝えよう。


 


 
ノーマン・マックレオ
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2011/5/18(水) 午後 7:52  http://blogs.yahoo.co.jp/kurodakango/3831615.html
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