日ユ同祖論   まとめ 2

              ━(続きである)━
 
ノーマン・マックレオ
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2011/5/18(水) 午後 7:52  http://blogs.yahoo.co.jp/kurodakango/3831615.html
日ユ同祖論
歴史
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                         開祖マックレオ
 
明治初期に来日した英人N・マックレオドは、1875年(明治8年)に出版した『日本古代史の縮図』の中で「天皇家は、古代イスラエルの王家の子孫である」などと唱えた。これが日ユ同祖論の原典であり、1901年度版の『ユダヤ大百科事典』に取り上げられ、多くのユダヤ人に感銘を与えその後の『ユニバ-サル・ユダヤ百科事典』に今日でもその引用文が掲載され続けている。
マックレオドの著作物は今日読むと、いささか時代遅れの感が否めないが、重要な指摘も多く見られる。
その一つは 「アジアの中でも日本人だけが他の民族と非常に異なる風習・文化を持っている」 と言う指摘である。
確かに我々が今日の国際社会の中で日本の独自文化について考えてみるとその本源がどこにあるのか?よく分からないものが多くある。
 
 例えば、お相撲などで塩を撒く習慣はどこから来ているのだろうか?
 お正月の鏡餅は?
 お盆の風習は?
 
古代から伝わって来たこれらの日本の風習がお隣の朝鮮半島や中国にその源を見つける事はできない。
何よりも異なるのは神社とそこで祀る神々である。
日本の神々の源はどこにあるのか?
 
この時代の国際人であったマックレオドは日本が東洋の他の国とは異質である事に気付いたのである。
 更にマックレオドは、 「日本の文化が朝鮮や中国とも異なっているのは、2500年前に古代オリエント地方から東方に追放され、その後歴史から消えてしまった古代イスラエル10支族が、遥か東方の国日本にやって来て住み着いたからではないか」 と述べ、ケンペル達の主張を踏まえて『日本古代史の縮図』を著した。
 
 なぜマックレオドが開祖なのか、と言うとその著作の影響力が大きいからである。
ケンペルの本は日本の習俗や歴史を紹介する事を主眼としていたが、マックレオドの本は最初から最後なで「日ユ同祖論」をテーマとしていた。世界で始めて同祖論の本を書いた。そしてそれは激動のユダヤ人社会にそれなりの衝撃を持って迎えられたのである。
 
19世紀の終わりから20世紀全体においてユダヤ人の社会は大きな変化を体験した。ロシアや西ヨーロッパで沸き起こるユダヤ排斥の嵐のようなホグラムの中で共産主義による革命を望む者もいたが、多くは約束の地に帰る運動に参加しはじめた。ドルフュス事件やアウシュビッツに象徴されるように、あらゆる国で悲惨な体験をした彼らにとってイスラエル建国は生きる必要性から生まれたものだと言える。
やがて火種を持ちながらも建国した国の中で、かつて兄弟であった北イスラエル10部族を探す人達が現れた。10部族を探す民間団体であるアミシャーブが設立したのは1975年だった。彼らはゆっくりと東上しながら10部族の足跡を追った。
語学の才にたけ7ヶ国語を自由に操るヨセフ・アイデルバーグは、それとは別に74年に来日すると、神社と日本語を研究し1984年に『大和民族ユダヤ人だった』を著した。
 
彼は「神武天皇の和風諡号(しごう)である「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」はヘブライ語で「サマリアの大王・神のヘブライ民族の高尚な創設者」という意味になっていると言う。又日本の古語 「あがたぬし」は神武天皇が首長に与えた称号だが、古代ヘブライ語で「アグダ・ナシ(AGUDA-NASI)は「集団の長」を意味し、日本語の「ハズカシメ」は侮辱を意味するが、ヘブライ語で侮辱は「ハゼカーシェム」だと述べて日本語とヘブライ語を比較研究している。
 
それより少し早く、日本の川守田英二博士もまたハヤシ言葉にヘブライ語の意味を見出している。
川守田は伊勢音頭のハヤシ言葉である サーサ、ヤートコセイ、アリャワリャ、コレワイショ、ユノナンデモーセヘブライ語に解釈して「喜べ、喜べ」「主は投げられた」「主は憐れみ深し」「我、主を讃えまつる」「モーセを救い主に立てて」の意味になると言う。(『日本言語考古学』や『日本ヘブル詩歌の研究』より)
 
ただし川守田は戦前の軍国主義的同祖論者、酒井勝軍の影響を強く受けており、あまりお勧めではない。
 
これらはみなマックレオドの撒いた種から発展して来たものである。
 
《参考》
http://rerundata.net/ura/hexagon/texts/textA4F/hatchJ/b1fha007.html 
 http://judea.naritacity.com/journal_japan_050715.asp
http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb412.html 
 


コロボックル・アイヌ論争の後に・・・
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2011/5/19(木) 午前 4:41  http://blogs.yahoo.co.jp/kurodakango/3839551.html
日ユ同祖論
人類学と考古学
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今日の歴史学、考古学会においても、日本民族の先祖については判明していない。
 
 明治維新が起こり、新しい夜明けを迎えた日本にエドワード・S・モース(Edward Sylvester Morse、1838- 1925)が1877年に来日した。
 東大で教鞭をとり、すぐに大森貝塚を発見し、『日本における古代人種の 痕跡 』でプレアイヌ人論を唱えた。
 これに対してHVシ-ボルトやJミルン(日本地震学育ての親)が反論し、いわゆる「コロボックル・アイヌ論争」に火がついた。しかしこの論争の焦点は、日本民族の先住民は誰か?と言うもので、いずれにせよこの先住民を後からきた現日本民族の先祖の手で 駆逐  したという大要においては一致していた。
 では、その後から入って来た民族はどこから来たのか?
 
 いろいろな説があるので少し見てみよう
 
大正時代、清野謙次らは人骨の研究から『日本原人論』を唱えた。つまり旧石器人がそのまま日本民族の先祖だと言うのである。しかしこれは根拠に乏しく多様な反論がなされた。神話、伝説、民話、儀礼などの比較研究によって民族の原郷を探す方法が文化人類学民俗学によって採られて来た。津田左右吉、鳥居竜蔵らがさまざまな説を打ち立てた後、民俗学者柳田国男折口信夫はシンポジウム「海上の道」(昭和36年)で日本文化の原郷を南方であるとした。
  海外との交流がすすむにつれ、語彙(ごい)や文法の研究により、言語学的アプロ-チがはじまるのは必須といえる。朝鮮語と比較したW・アストン、琉球語のb・チエンバレン、アイヌ語のJ・バチェラ-などの研究の後、金沢床三朗の『日韓両国語同系論』(明治42)などが出、アリアン語やインド・ヨ-ロッパ語との比較研究もなされた。その後もさまざまな説が出たが、北方説や南方説に対して昭和初期、亀井貫一郎が「騎馬民族説」を打ち出した。亀井の所論は説得力に富む壮大なもので、日本民族の先祖はツング-ス系モンゴロイドだとした。
 その後昭和28年、江上波夫らによるより画期的な 「騎馬民族征服王朝説  」 が提唱された。昭和42年の「シンポジウム日本国家の起源」で江上は、南朝鮮から北九州への騎馬民族の侵入が4C前半になされたと言っている。しかしむろんのこと江上説への反論も多く、以後これらの論争の決着は今日でもついていないのである。
 日本民族の祖先はどこからきたか?北からか、南からか、西からか、民族のル-ツは依然として謎に包まれている・・・・。
 
つまりまだ分かっていないのである。
しかし、賢明なる読者はすでに答えを察知したはずである。