乞食がいる国といない国
日本には昔、東北などに「姥捨て山」の風習があった。
あるいは子供を殺す「間引き」は全国でなされていた。
多くの農民は自作地を持てず、高い小作料と年貢にあえいでいた。
「姥捨て山」「間引き」「娘の身売り」は、昔の日本の農村を象徴する言葉である。
明治維新後も日本の農政はたいして変わらなかった
だから遊郭に売られて来る娘達がたくさんいたのである
胸が痛い話だ
先祖達は裕福では無かったし、だから江戸時代から明治時代に日本に訪れた外国人は、多くの乞食がいたと証言している。
乞食だらけの日本
ケンペル(斎藤信訳)『江戸参府旅行日記』平凡社東洋文庫,1977. [初出=1777-79年]
府中を過ぎた所と同じように、ここでもわれわれに群がる乞食に出会ったが、彼らのうちにいた胸をあらわにした一人の美しい少女が、われわれの駕籠に近づいて来て、要領よく布施をせしめた。(p. 209)
府中を過ぎた所と同じように、ここでもわれわれに群がる乞食に出会ったが、彼らのうちにいた胸をあらわにした一人の美しい少女が、われわれの駕籠に近づいて来て、要領よく布施をせしめた。(p. 209)
C・P・ツュンベリー(高橋文訳)『江戸参府随行記』平凡社東洋文庫,1994. [初出=1778-93年]
江戸と都を結ぶ街道のあちこちに、たいていは足に障害のある乞食がいた。この国の他の場所では障害者はごく稀だったので、これは私には極めて異常なことに思われた。(p. 200)
ジーボルト(斎藤信訳)『江戸参府紀行』平凡社東洋文庫,1967. [初出=1897年]
街道はここらではたいへん活気があった。これまでより乞食が多かったし、旅行者の慰めに六歳から一二歳ぐらいの少年少女が上品とはいえないトンボ返りをしていた。
E・S・モース(石川欣一訳)『日本その日その日』平凡社東洋文庫,1970-1971. [初出=1917年]
ある町で、私は初めて二人の乞食を見たが、とても大変な様子をしていた。即ち一人は片方の足の指をすっかり失っていたし、もう一人の乞食の顔は、まさに醗酵してふくれ上らんとしつつあるかのように見えた。(1巻, p. 44)
だから、貧困にあえぐ日本の農民達は自分の娘を遊郭へ売ったのである。
しかし朝鮮には乞食はいなかったらしい
それはすでに書いた相互扶助の精神があったからであろう。
だから訪れた外国人も「乞食はいない」と書いている
乞食がいない韓国
W・R・カールズ(申福龍訳)『朝鮮風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1888年]
人々は貧しいが、まったく窮乏しているように見えなかった。朝鮮のどこでも乞食は見かけられず、飢饉が蔓延している所ですら乞食はいなかった。(p. 124)
人々は貧しいが、まったく窮乏しているように見えなかった。朝鮮のどこでも乞食は見かけられず、飢饉が蔓延している所ですら乞食はいなかった。(p. 124)
Henry A. Savage-Landor, Corea or Cho-sen, IndyPublish.com, 2007. [初出=1895年]
朝鮮で乞食を見ることはめったにない。祝祭や特別の機会以外は、乞食が街を歩き回ることは禁じられている。(p. 52)
F・A・マッケンジー(渡部学訳注)『朝鮮の悲劇』平凡社東洋文庫,1972. [初出=1908年]
この国には乞食はほとんどおらず、いてもほんの僅かであった。ここでは、貧民のために苦心してつくられた貧民救済制度はその必要がない。地方の人たちは、自らの土地をもち、そこで働き、特別な窮迫時は別として、自分の家族を養うための、今後一ヵ月の生計を維持するに足るだけの、十分な収穫をその秋に得ることができた。(p. 32)
つまり、日本人と同様に、貧乏ではあっても喰って行けないほどでは無く、乞食なるものもおらず、「姥捨て山」も「間引き」も無く、ようするに自分の娘を売る習慣など無い人々だったのである。
しかし、「公娼制度」をもたらしたのは誰だ?
農民を娘を売るほどの貧困に落としいれたのは誰か?
それは「大日本帝国であった。
そういう事をきちんと考えていないから、今日の日本の歴史観は狂っているのである。
韓国の歴史教科書が教える歴史が全て正しいとは、言えないが、日本の歴史教科書は探求が余りに浅いので「真実」を主張するレベルに到達していないのである