これは慰安婦問題の真実か?

 
 
からの転載
 
 


この種の論を張ると、罵詈雑言、罵倒、嫌がらせがコメントに列挙されるので敢えて避けてきたのだが、現実に今なお、屈折した自由主義史観が罷り通っている事に憤ったので、取り上げてみる。
 
従軍慰安婦問題

 そもそも、「従軍慰安婦」と言う言葉は、戦後に作られた造語と考えている人が多いのにも
驚かされている。小生の亡父は、帝国陸軍、少佐として戦後を向かえ戦犯として巣鴨に拘留経験の
ある人であったが、週刊実話が、最後の性戦従軍慰安婦なる記事を掲載したのは昭和43年で、これが
最初であると言われている。昭和43年と言えば、小生が小学校6年生の時に当たる。

父の所属する戦友会の方々と始めてお会いしたのは、昭和40年が最初で、この時に既に
従軍慰安婦」と言う言葉を彼らは使用していた事実があり、現実には正式な呼称では
なかったにしろ、その呼称は戦前からあったと思われる。

況や、朝日新聞が昭和50年代にキャンペーンを張った時に造語したなどと言う主張は完璧に
間違いである。

更に、今年78歳になる母が、戦時中に女子挺身隊に志願を希望した折、亡祖父(海軍工廠、幹部)
に「従軍慰安婦の様な真似をするな。」とその志願を取りやめさせられたと言う記憶もあり、戦前から
一種の呼称として使用されていた可能性が大きいと判断される。

また、慰安婦の員数についても、自由主義史観であると、数万人規模を逸脱しないと判断している。
根拠が、当時、彼女達を前線基地まで送った記録が存在しないと言う事だが、それも間違っている。

まず員数については、恐らく10万人~20万人程度になっていた可能性が大きい、この根拠は
昭和12年、日中戦争の拡大に伴って、陸軍参謀本部付けの計画書に20万以上の慰安婦が必要と
書かれている。この計画に基づいて送られたと考えるほうが自然であり、この員数からそう遠くない
慰安婦を送ったと思われる。

また、どうやって送られたか?についても陸軍の資料に散見されている。女子挺身隊や従軍看護婦など
の場合、陸軍の正規部隊付けとして、その行動計画書に氏名、年、出生地の明記があるが、慰安婦の名が
その記録にないを理由に軍が、その輸送を組織的に行わなかったとは言えない。それは、彼女たちが
物資として、兵站部が扱ったからである。

その兵器や牛馬と同様に兵站記録には、うめ、たけ、はな、などの名前のみに記録が多く残っている
つまり彼女たちは人間ではなく、物資として扱われたと言うことである。この兵站記録の大半が
散逸しており、その全てを調べることは不可能であるが、残された記録に少なからずの名前がある事から
軍が制度として、この慰安婦利用していた事は否定できない。

また、慰安婦は日本人も多く含まれており、韓国人だけではないと言う反論をされる方々も少なからず
おられるが、昭和16年、太平洋戦争以降の慰安婦は7割近くが朝鮮半島出身者で占められており、
日本人の場合、志願した現役の娼婦に限られていた。中国人の数が少ないのは、軍の行動や機密が
外部に漏れる事を考慮して、慰安婦に使用しなかった事も、その計画書に記載がある。日本人慰安婦
員数は、終戦間際には1割を下回っているくらいである。

朝鮮半島で募集された慰安婦の内、その大半が仕事内容を知らされていなかったと言う事実も
陸軍、軍医、中野中尉の日記や日誌にも現れており、この一説に「朝鮮人は、パイパンが多いと言う
実しやかな話が、軍人たちに聞かれるが、現実には日本人より薄いものの、パイパンは殆どおらず、
その慰安婦たちが、まだ生える前の少女であった事が、この噂を増徴させた原因である。」とさえ
述べている。

最初の検診の際に、男である軍医にその裸を見せる事を躊躇った者が多く見られたとも書かれており
玄人の娼婦ではないことを、表している。

更に彼の残した、写真には、軍が直接管理する慰安所の姿も残っており、軍が主導する形で、この制度を
作り上げたことは間違いのない事実である。これを否定する事は歴史に対する冒涜であると言える。

新自由主義史観の主張に陸軍、軍令部の要請として、内務省に対して、「陸軍の名を勝手に使用して
女衒の真似をし、況や拉致、誘拐して女性を集めている輩の取り締まり強化。」を指示しているから、
強制的な連行は、軍の意思ではなく、民間の女衒たちが勝手に行った事で、軍の関与はない。

小林よしのり氏や、桜井よしこ女史の主張にもこの一文が載せられているが、これも資料の拾い読みに
よる間違いで、この陸軍の要請以前に、この手の事件が多発していたかと言うと、その事実はない。
たった一件、徳島県警の取り締まり記録に、2名の女衒が陸軍の名を持ち出して女性を連れ去ったと言う
事件のみである、この2人の女衒は逮捕されたが、陸軍省発行による女衒の許可書を所持しており、後日釈放されている。この一件だけが事件として扱われたのであって、事件そのものは存在していないのである。

つまり事件も起こっていないのにも関わらず、陸軍は何ゆえ内務省に対して、この様な要請をしたのか?
容易に結論を導き出せる。陸軍が発給した証書を持って過激に立ち回るであろう、女衒に対して、やりすぎるなと言う陸軍の意思の表明であり、この事から逆に軍が組織的に慰安婦募集に関わっていた事を
証明するものと言えるのである。

資料の拾い読みである自由主義史観の主張は根本から間違った結論を引き出していると言えるのである。

国家として、この慰安婦問題に関わった事実を残す公文書は残されていない事が、彼らの主張を勢い付けさせているのだが、ポツダム宣言受諾以降、政府も軍隊も、資料の廃棄や焼却を命じている事実が
ある限り、公文書が見つからないを理由にこの問題を否定する事は、卑怯卑劣の謗りを免れないものと
感じる。

南京事件

 この問題も同様に、前線で戦った兵士たちは、その虐殺を認めている者が多く存在する。命令書の中にも、一部の集落を殲滅しろと言うものも残されており、基本的には南京事件はあったとするべきであり、
その被害数だけが、これからの調査によってある程度具体化すると言うことであろう。

ネット上でも南京事件はなかったと言う論調のものが多く見られるが、この主張に根拠がない。

つい先ごろ、NHKの特番で南京事件を扱ったものがあったが、この戦線で戦った兵士たちが虐殺を
認めている。経験者が認めたものを経験もしていない者が否定できるはずはない。この事を肝に命じる
べきであろう。

歴史認識

 わが国の場合、その歴史観明治維新後、断絶した歴史観を国民が持っている事が、この問題を
複雑にしている。

そものそも、歴史と言うものは継続したものであり、この時点で断絶したと言う考え方は、歴史そのものを否定すると思われる。

戦前の行われた戦争責任を東京裁判にだけ頼って総括せずに60年以上を過ごした結果、戦前の出来事は
既に終わった事と、断絶して判断している。

しかし、現実には継続性の中で歴史は存在し、だからこそ、韓国は豊臣秀吉にいたる、日本の暴挙に対して今なお批判しており、逆に日本人は秀吉を罵倒されたからと言って、憤慨することはないのである。

つまり江戸時代以前の歴史は、歴史と言う物語と言う判断があるからで、その秀吉を罵倒されても
罵られても不快と思わないのである。しかし近代史に至っては、全く違う反応を示すのが日本人と言える。

同じ歴史の事実に対して、明治以降の事柄は、批判され罵倒されると憤り、逆に江戸期以前の出来事には
無頓着でいられる。この歴史観が、断絶した歴史観と言う。

拉致問題と旧陸軍の強制徴用や、朝鮮戦争に於ける敵対関係は、繋がっていないと論じるのも、同様に
歴史観の断絶を意味している。

屁理屈であるにしろ、継続した歴史観の中で、物事を考えるのは、必ずしも否定できない。つまり、
歴史の流れは、止めることも断絶することもあり得ないのである。そういう意味においては、日本人の
歴史観そのものが硬直しており、間違っていると言える。

拉致事件を是とするのではなく、相手の言い分は屁理屈であるとしても、その考え方そのものは、否定
できないと言うことである。

つまり継続した歴史観を日本人は持つべきであろう。そうすれば、近代史に於いても共通の認識を
作り上げられるものと思っている。

最後に、被害者にとって、その被害実数は問題ではなく、その事件が有無が問題であるのだと言う事を
被害者の立場になって考えるべき時である。
 
(転載終わり)

 
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