日本の七奪はやはり七奪だった

在日朝鮮人の名前』(伊地知紀子著)
に面白い事が書いてあった。
 
戦後、日本に帰化する者は日本名にしなければならないという取り決めがあったという。
1986年までは、帰化の仕組みはこうなっていた。
帰化許可申請書」には「帰化後の氏名」を書く欄がある。許可前の申請段階で、帰化後の氏名と本籍は本人が自由意志で決めるのが表向きである。
それが、1986年までは、「帰化許可の手引き書」の注意書きには、「日本的氏名」を用いるとあった。
 
それで帰化した外国人は皆、日本名を名乗っていたのである。
しかし、1882年ベトナム人、トラン・ディン・トンさんが帰化時に強制された日本名「中井英雄」から、本来の名前を取り戻す訴訟を起こし、みごと勝ちとった。
元韓国人では、
これに対して、1985年、朴実(パクシル)さん達数名が「名前を取り戻すために」訴えたが敗訴した。しかし87年再び訴訟し勝ち取ったと言う。
 
さてこの話の何が重要なのか?
 
それは
建前は、名前を自分で選ぶ事になっていたが、実際には「日本的名前」を押し付けていた事・・・・である。
 
つまりは本音と建前の構造により、つい最近まで、日本名への変更を押し付けられていた・・にも関わらず、
対外的には、「本人の自由意志による」としていた事が重要である。
 
 
この事は今日論争の種になっている創氏改名の真実を探るのに役立つ。
最近日本では例えば『日本の七奪は七恩だった』なんて本が出てきている。こうした本の特徴は、当時の公式な資料を用いて、大日本帝国がやった罪深い行為を隠匿する事である。
創氏改名についても、それは強制ではなかった・・・などと平気で書いている。
 
しかし、今の時代よりもさらに右翼思想が強い時代であった。
朝鮮人を徹底的にバカにしていたし、武力を背景にした皇民化政策の過程で、「日本人なんだから名前を変えろ」と迫ったのであろう。
 
そうした事は今日まで生きている韓国の老人達が体験として述べているにも関わらず、その証言を無視してしまっている。
彼らはこう言う。
「法のたてまえの上では任意の届出、自由意志であったが、日本政府は警察や学校、メディアなどを使って強制したのである。逸脱すると、学校への入学や進学ができなかったり、配給対象から排除されるなど生活の隅々で様々な制裁があった。」
1940年制令19号では、「氏に関する規定は、朝鮮の慣習によらないで、内地民法の規定による。氏は、戸主が決める」となっている。