心━その未知なるもの

今から150年も昔、ジャルコーから催眠を習ったフロイド博士は次のような実験をした。


<後催眠暗示の実験>
 
ある人を催眠状態にする。
この人をAと名づけよう。
 
催眠状態のAに暗示を掛けて
「眼を醒ましたら、窓をあける」と命じ、
さらに、「この命令を忘れる」と命じておく。
 
さて被験者Aの目を醒ます。
するとAは、命令されたように窓を開ける。
そこで、「なぜ、窓を開けたのですか?」と尋ねると
Aは、命令された事は忘れていて、「熱かったから」とか言う適当な理由を捏造して答えるのである。
 


 
この実験は催眠に関わる人間なら誰でも知っている後催眠暗示の実験である。
この実験からフロイドは、無意識(下意識、潜在意識)の存在を証明したのである。
ここで面白いのは、Aが窓を開けた動機を適当に捏造してしまっているところである。
 
つまり、我々人間は何か行動した時、その本当の動機を知らない事もよくあるのだが、その場合、自分で適当に動機を造ってしまうのである。
 


   *フロイド博士の間違い
 
さてフロイドの間違いはここから、「性理論」へと向かった事である。
彼の理論では「性の欲望を抑圧する事が神経症の原因である」と言う。ここから「性解放思想」=フリーラブ、フリーセックス思想が生まれる事になる。
 
精神科医CGユングは、このフロイドの理論に対して次のように指摘している。
 
①、フロイドは性の「抑圧」と「抑制」を混同している。なるほど抑圧は神経症の原因になりうるが、抑制は正常な心の所産である。
 
神経症の原因は、性の抑圧以外にも多用に存在している。
 
精神分析学会は一個の擬似宗教の様相を呈している。これは神の実在と宗教を否定して、それに成り代わろうとしているのである。
 


20代前半の私にとってこの問題は重要であった。
そして私は考えた。
では、私が何か行動する場合、それが私の無意識に放りこまれた観念(暗示)の働きである可能性はあるのか?
すなわち、私は常に私の意志で生きているつもりでいるが、実はそうではない可能性もあるのだろうか?
しかし、あらゆる暗示は私の断固とした意志を挫く事はできないはずである。
これにたいしては少し説明しておこう。
 


 
例えば、銀行の出納係りの人に暗示をかけて、お金を盗むようにさせる事はできるのだろうか?
 
催眠暗示はそう言う事はできない。もしそのような暗示をしても、それが本人の良心に反する事であるなら、その人の内部で葛藤が起こり、一時的に心身喪失状態になるだろう。
催眠を習った者なら誰でも知っている事だ。
 
だから、催眠術師が邪な心を起こして女性に「服を脱げ」と命じても、普通は脱がないし、この場合は催眠が解ける事になるのである。
もし脱ぐような女性がいるとすれば、それは元々それを望んでいる場合であろう。(露出癖があるとか、その催眠術師を誘惑して性的関係を望んでいたとか、あるいは元々、夫婦、恋人であった場合などでは、「服を脱げ」という命令は実行されるかもしれない)
 
つまり、暗示の命令というものは、その人の特性を変えるものでは無いのである。
ゆえに観念は個々人の意志に反する事をさせる事はできないはずである。
しかし、同時に我々は心の中に多様な指向性を持つ欲望が生じる事も知っている。
それらの欲望の中には良心に反するものもまた存在している。そしてしばしば葛藤する事になるのである。
 


 
 こうした事を考察していた私は私の心の中にある観念を調べてみる必要を感じた。
自分の心を精査してみる必要を感じたので、ユング派分析家の協力の元に自分の心に押し入って行った。
1987年の話である。
こういう心の旅は、誰かの手を握っておかないと危険なのだ。
 
こうして私は自分の心の内部を点検していた。
多用な観念の塊(かたまり)が私の心に存在していた。細かい観念の塊は多くある。これらは夢の中では虫や魚の姿で現れて来る。
 
私はその頃、腰まで浸かりながら海を歩いて行く夢を見た。
その道は危険に満ちており、一歩間違えば、深みにはまってしまうのだ。
そして暗くて深いところには、何かが潜んでいるのである。
私は均衡を保ちながら、かろうじて歩いていた
 
観念と言うのは、「心の中にあって人を動かす考え」である。
だから暗示の言葉のように心を支配しているのであるとも言える。
観念は心の中でそれぞれ一塊(ひとかたまり)に存在している。
その中でも、感情を中心としてイメージが集合したものを観念複合体(コンプレックス)と言う。コンプレックスは、一個の人格のようなものである。
発見されているコンプレックスは多様である。
 
エディプス・コンプレックス(フロイド)、劣等感コンプレックス(アドラー)、カイン・コンプレックスユング)、阿闍世コンプレックス小此木 啓吾〔おこのぎ けいご〕)、エレクトラコンプレックス・・・・などである。
 
こうした観念の塊は我々の心に有って、外界からの印象を歪めると同時に行動を歪めてしまうのである。
例えば、兄弟間の嫉妬の感情を核にして形成されているカイン・コンプレックスに支配されている人がいるとするとしよう。
 
彼は成人化し、会社に入る。するとライバル達が多くいる。彼は上司を親に見立て、その寵愛を得るべく仕事に精を出すかもしれない。その結果、認められたと感じればそのカインコンプレックスは治癒されるであろう。しかしその過程でライバル達に大きな嫉妬心を持つ事になる。自分はいつも不遇であり、満たされず、認めてもらえない・・・と彼は感じる。愛されていないと彼は確信している。そう感じさせるのが、このコンプレックスの特徴なのである。そしてこのカインの感情に負けてしまいあるいはライバルを殺害するかも知れない。
あるいはライバルを追い落とすためにその悪口を有る事無い事告げ口するかもしれない。
 
ちょうどこのコンプレックスの名前の元となった『聖書』のカインのような心を持つのである。
 
しかし、彼が自己の良心の声に忠実であるならば、こうした行動をしないで、いずれは自分の心の問題を解決するであろう。
 
 
             カインの反逆━共産主義
20世紀、このカイン・コンプレックスを中心として集まった集団があった。カインの反逆・・・すなわち共産主義である。あらゆる国でアベルを殺す流血の革命がなされていた。この頂点に立った独裁者スターリンは、そのライバルを蹴落とすために、あらゆる手段を使った。さらに独裁者となった後も将来のライバルを自分の兄弟を含めて、次々と秘密警察の手で粛清したのであった。
これは、カイン・コンプレックスにとり憑かれ、完全に支配された人の心である。
その心にとって、周りは全て自分を追い落とすかもしれない敵であった。
すなわちそれは「嫉妬による兄弟殺しの情念」であり、人類が今日まで形成して来た膨大なカイン的感情のエネルギーが、かつてのローマの農耕神サトウウルヌス(クロノス)の旗(ボルシェビキの旗)の元に集まっていたのである。
 
 
 
この観念の背後には、さらに「表像可能性として」の霊的存在━集合無意識の元型(アーキタイプ)が存在しているとユング心理学は言うが、とりあえずここでは観念の塊についてのみ述べて見た。
 
 
(残念ながら、この貢では霊的な問題について書けなかった。次項に個々人の心を戦場とした神とサタンの争いを書く事にしよう)