聖徳太子は実在した

    
         K氏への手紙
 
先日の対話の中で殊更問題なのは「聖徳太子はいなかった」と言う説です。
共通の見解として
「太子にはモデルとなった人物がいた」は正しい見解だと私も思いますが・・・
 
確かに聖徳太子は当時別の名前で呼ばれていたであろうし
聖徳太子として我々の見る絵は太子では無いでしょう。
そして日本書紀は太子の死後100年も後に書かれたものである事は言うまでもない事です。
 
しかし、それは書記の太子のモデルとなった人物がいた事を否定する事はできない。
しかし一部の学者達は、まるでそのモデルさえいないかのような事を言う。
 
それこそ証拠が何も無いのです。
不等人が道慈に命じたと言う文書がどこかにあるのか?
まさに状況証拠にすぎないのでは無いか?
一体、いつから学者達は状況証拠だけで物事の真実を判断するようになったのだろうか?
思想家がそんな事を主張するのなら分かる。
しかし、歴史の定説になるには、「状況証拠」以外の証拠が必要である。
 
もし、不等人や道慈が共謀して太子の人物像を創ったのだとしたら、彼等はかなり天才であると私は思います。この手の学者達によれば
三経義疏も道慈の製作であると言う。
 
 
      三経義疏』が道慈の製作では有り得ない理由
 
            1、その独創性ゆえに
 
三経義疏はかなり大胆な事を書いています。
 
勝蔓経』の「財を捨すとは・・・・一切衆生の殊勝な供養を得るとなり」とあるのに対して
「語は少しく倒せリ。まさに殊勝の一切衆生を供養する事を得と言うべし」と説明する。
つまりは、経典の文句を恣意的に言い換えて利他・奉仕の精神を強調しているのである
 
こんな大胆な事を道慈が書くだろうか?
唐に留学して、仏教を学んだ道慈は、自分で独自に利他・奉仕の精神を強調しようと思って、経典の言葉を恣意的に言い換えた・・・・と言うのだろうか?
同時代の行基菩薩は仏教者としては天才だった。官寺仏教の枠から飛び出し、その迫害にめげない信念は、後の日蓮にも通じるものである。
しかし、道慈は官寺仏教の枠の中に留まった人物である。
秀才であって天才では無い。
    
 
       2、道慈が冒険をする必要はあるのか?
 
そんな人物が経典の文句を恣意的に言い換えるような冒険をするのだろうか?
当時、留学僧はすでにたくさんいたのである。
みな中国語に堪能な、それなりの知識人であった。
 
道慈が、経典の文句を恣意的に言い換えるようなような事をすれば、他の知識人達はそれを批判するだろう。
「道慈は、経典を捻じ曲げた」と非難するだろう。
しかし、そのような記録さえない。
 
このような冒険を道慈がする必要がどこにあるのだろうか?
おとなしく、ふつうに解釈すればいいではないか?
 
 
     三経義疏』のさらなる創造性について
 
さらに三経義疏の中の『法華経義疏』 はこのように言う。
 

 聖徳太子法華経義疏』
 
 「疑いの心既に生ぜば、解を得るの義あるべし」

これは何だろうか? と疑い、思うところに、はじめてその疑問を解決する道があるのだ、という意味である。
 
疑問を抱いて、それを解決することは発明、発見の源であるといわれるが、仏教においても同じで、その真髄をつかむためには、疑問を抱かねばならない。
煩悩を去って涅槃を求めよと説く他の経典とは異なって法華経』は、それを高説する釈尊のように仏となれと説く
そのため人々は大いなる疑問をもったのであるが、その疑問こそが釈尊の真意をつかむ入口になると聖徳太子は解説したのである。
 
信仰とは信じる事だと一般的には思われている。
しかし疑う事もまた信仰なのである。
疑って、解を得る事が真理へと到る道である。
太子の仏教観がよくわかる。
 

 
しかし、これも道慈の創作だと言うのか?
道慈と言う人は経典の菩薩道を強調し、さらに法華経を解釈して「疑う事から道ははじまる」と述べる程━それほどの大天才だったのであろうか?
 
 
 
          4、 仏教の黎明期に 一人の天才がいたのである
 
私はそうは思わない。
まず、仏教の草創期に聖徳太子のモデルとなった一人の天才がいたのである・・・と考える。
その天才は、天才独自の創造性を発揮して菩薩道を強調したのである。
 
だから、道慈が生まれる前から、大阪の四天王寺には4院が造られ、薬草を栽培し与えたり、貧困者や病人を寄宿させ養い、あるいは修行と修養をさせていたのである。
それは、四天王寺が造られた頃の蘇我氏の呪術的な仏教(我が家の繁栄のための仏教)からは考えられない行為である。
 
そこには別の誰かがいて、「菩薩道」を強調していたのであろう。
だから、その教えを受けて
四天王寺には4院が造られ、薬草を栽培し与えたり、貧困者や病人を寄宿させ養い、あるいは修行と修養をさせた」
という行動があるのだ。
そうでなければ、蘇我氏の理解していた「我が家の繁栄のための仏教」から「奉仕の菩薩道」までの飛躍が説明できないのでは無いでしょうか?
 
 
 
         5、全ては一者から始まる・・・それがこの宇宙の法則である
 
一人の人がいたのです。
その人から全てが展開していく。
 
日蓮という一人から日蓮宗の歴史が始まるように、
太子(うまやど でも 耳とよふさ でも何でもいい)と言う一人の人から、太子仏教の歴史が始まるのです。
 
三経義疏』は道慈のような秀才の業ではなく、天才の業である
それを感じられないような感性しかない学者の言う事など信用できない・・・と私は思う。
 
 
                                        by かんご