聖徳太子を見よ

行基菩薩の闘争

【続日本記】養老元年(717)四月二十三日条は、国家による仏教統制策として、当時の状況が僧尼令に反している事を三か条に分けて厳しく指摘し、その取り締まりを命じる詔を載せる。そこで糾弾されている内容は、令の規定によらない出家、すなわち私度僧…

聖徳太子は実在した

K氏への手紙 先日の対話の中で殊更問題なのは「聖徳太子はいなかった」と言う説です。 共通の見解として 「太子にはモデルとなった人物がいた」は正しい見解だと私も思いますが・・・ 確かに聖徳太子は当時別の名前で呼ばれていたであろうし 聖徳太子として…

山背大兄王の菩薩道

山背大兄王の菩薩道 インドに起こった初期仏教徒達にとって「布施」(施す)は、徹底的に実行すべきものであった。 原始仏典には、釈迦が前世で飢えたトラに命を投げ出した事が、今世における悟りの重要な契機となったと記録されている。 経典の中には、財産…

菩薩の行い

聖徳太子から行基菩薩へ・・・その菩薩の心 大乗仏教においては、利他行を強調する。 これを殊更に強調したのが聖徳太子である。 太子の造った大阪の四天王寺に4院が造られ、薬草を栽培し与えたり、貧困者や病人を寄宿させ養い、あるいは修行と修養をさせた…

仏教興隆の影に太子あり・・・聖徳太子『法華経義疏』

聖徳太子『法華経義疏』 「疑いの心既に生ぜば、解を得るの義あるべし」 これは何だろうか? と疑い、思うところに、はじめてその疑問を解決する道があるのだ、という意味である。 疑問を抱いて、それを解決することは発明、発見の源であるといわれるが、仏…

太子にまつわる民族の記憶

聖徳太子は574年、用明天皇と穴穂部間人皇女の長子として出生した。 その厩戸王子と言う名前からわかるように、馬小屋で出生したという。 太子に関する記録は『日本書紀』『上宮聖徳法王帝説』などであり、多くの知恵と奇跡譚と共に、12歳の時、百済僧…

仏教

仏教の真髄、眼目 私達は目に見える小さなものには、共通の見解を持ちやすいのです。今私の目の前に銀色のコップがありますが、私が「ここに銀色のコップがあります」と言ってそれを見せれば、たいていの人は「そうですね」と言うと思います。中には「いいや…

古代日本の宗教戦争の中での太子のカリスマ

仏教伝来当時、仏教徒達は攻撃されっぱなしだった。 その戦いは3次に渡る 3という数字は聖書や易経でも聖なる数字とされている。3度、3回というのは意味がある。 570年、その稲目が死去すると物部氏らは、向原の仏殿を焼き、百済王献上の仏像を難波の…

太子が生まれた時代

太子が生まれた時代は過度期であった。 物事、方向性が変わる時代。 変革期。 時代が大きく変わった明治維新と同じよぷな時代。 朝鮮政策の失敗から大伴金村の失脚、筑紫の反乱などが起こり、氏姓制度の弱体化の後、仏教が伝来し(552年)、蘇我氏と物部氏の…

国乱れる時、生まれる菩薩あり

聖徳太子が私は好きだ 昔、お年玉で、聖徳太子をもらうと嬉しかった・・・という意味ではない まず書いたものが好きだ 『三経義疏』と言う仏教の解説である。 これは聖徳太子の書いたものではなく、後世(約100年後)の道慈と言う留学僧が書いたと言う説…