迫害

朝鮮総督府警務局図書課 『諺文新聞差押記事輯録(東亜日報)』昭和七年発刊
p.462~464より引用


東亜日報 昭和三年二月一日

普校生と小學生との衝突(論説)

  一
朝鮮普通學校生徒と日本小學生徒との間に衝突が起った。そして朝鮮普通學校生徒一人が傷害致死となったのである。此れが假令少さな事実のやうだが吾人はそれに對して深切なる注意を加へなくてはならぬと云ふことを信ずるのである。

  二
去る月十三日の事であった慶南固城公立普通學校生徒李龍振と云ふ十三歳の小児が学校の帰途固城面城内洞尋常小學校の裏で他の普通學校児童と竹馬に乗って遊び其の竹切れが尋常学校後庭に飛んだので、それを拾ふ為め小學校内に入ったのである。所が其所に居た小學校生徒等が党を作って李龍振を乱打した。李は其まま起つことが出来ず病床に臥すこととなり初めの内は父母も其理由を知らずに医師の診察を受けた結果殴打が原因の病と云ふのが判明することになった。そして固城郡内の医師等の力では到底どうする事も出来ぬことを知った。

  三
其間に小學校長は李龍振の病床を訪問して治療費は幾らでもよいから充分治療するやうにせよと云った。しかし病勢は益々沈重となるばかりで其父母は萬一の僥倖を希ひ晋州慈恵病院に行って見たが薬石の効なく去る二十八日遂に不帰の客となって了ったとのことである。吾人がこの事実を見るに際しそれを単純なる児童間の衝突と見る時にそこにあって甚だ重大なる民族的感情の伏在して居ることを知り得るのである。此の点から見て吾人は此の問題にあっても民族的に抗議する必要を感ずる所である。小學校生徒のしたことであるから彼等は皆十四歳未満とせばそれに對して刑事法規上の責任問題は起らぬのであるから李龍振の死は非常に不憫なことではなるが相對者に對して報復の問題は正式に起ることは出来ぬのである。

  四
しかし吾人は此処に於て固城の人士等と共に問題にせんとするものは小學校生徒等をして朝鮮児童に對して軽侮の考を持たしむる日本人父兄等の無責任なることを聲討し、亦其の教育を掌握した固城面城内洞尋常小學校長及教員諸君の責任を問はんとするのである。彼等が平素にあって其子弟其弟子に對し朝鮮児童に對して敬愛の考を持つやうに訓育する所があったならばどうしてそんな不祥事は惹起したであらう。であるから吾人は聲を高くして彼等の反省を促すと同時に今後一層注意する所あらんことを望むのである。そのやうにするには彼等が自省して相当なる形式の表現がなくてはならぬことを信ずるのである
 
 
 
朝鮮総督府警務局図書課『諺文新聞差押記事輯録(東亜日報)』昭和七年六月 
p.80~81より引用 ( 読みやすく改行しました。)

==============

大正11年8月1日東亜日報
日本に於て朝鮮人大虐殺
観よ!此の残忍悪毒なる惨劇を
一日十七時間の苦役を強要し逃亡すとて銃殺して河中に投ず
毒魔に惨殺せられたるもの百名以上

日本の信濃川なる河水を利用し信越電力株式会社にては八ヶ年の計画を以て東洋第一の大発電所を作らむが為め目下新潟県地方に於て朝鮮人労働者六百名日本人労働者六百名計一千二百名を以て工事中なるが、最近信濃川河水に朝鮮人労働者の屍体幾回も流れ来るを以て中魚沼郡十日町警察署にては異様に思ひ詳はしく調査したる結果実に天下の驚くべき事実を発見したり。

中魚沼郡秋成村穴藤なる工事場に於て労働する朝鮮人六百名は最初朝鮮に於て日本人が募集したる際一人宛予め四拾円宛を貸し与え八時間丈労働し一ヶ月八十円宛給することを約束して連れ帰りたるものなるが、其の現場に着くに及んでは毎日未明四時より夕の九時迄十七時間の間牛馬よりも酷使鞭使して強制を以て労働せしめ苦役に堪えずして其の場より逃亡し逃れむとするものあれば工事請負人は直にピストルを発射して殺し、他の朝鮮人に対する見せしめなりと信濃川の河水に投じたるが、去る二十六日晩にも一千五百尺もある絶壁より一名の朝鮮人を投ずるを警官が目撃したるも其処は登り行く途なきを以て仕方なく其の儘見逃したりと云ふ。

斯の如く虐殺に遭ひたる朝鮮人の数は幾名になるかは未だ確実ならざるも逃走して発覚し殺害されたる者と過度の労働に耐えず病になりたりとて殺害せられたるものを合すれば百余名に近き模様なり。

新潟県警察部に於ては東京警視庁の応援を得て目下生存し居れる労働者を保護し犯人を検挙せむと着手したるが、斯くの如き虐殺事件は実に現世界の何れの処にても見るを得ざる悪毒なる事なり。是が為めに問題は甚だ拡大すべしと。