「創氏改名」の真実

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1982年、日本の文部省は、歴史教科書の検定に端を発した「教科書問題」の時に、次のような発言をした。
 
創氏改名を強制したという記述については、これは法令上強制ではなく、任意の届出によるという建前であり、六ヶ月間に届出があったのが約八割に上ったことから、かなり無理があったことは確かだとしても、二割がこれに応じなかった事はやはり法令上の強制ではなかった事を示している」
 
こうした言説は、基本的には「日本の氏」と「朝鮮半島の姓」の違いに対する無知から生じている。
 
1937年日中戦争が始まると、日本軍の朝鮮人兵士つくりのために「内鮮一体」のスローガンが掲げられた。
こうした皇民化政策のために総督府が企図したのが「創氏改名」である。
1940年2月11日から施行されたこの法令は、全ての朝鮮人に強制され、全員が戸籍の上で「氏」を持つようになった。しかし、その「氏」をどのような名前にするかは六ヶ月間に自分で申告する仕組みであった。つまりそこだけが自由選択だったのである。
 
では、申告しないとどうなるのか?
「姓」がそのまま「氏」になり、登録されたのである。
だから、それ以後も李〇〇と言う人はいるが、それはすでに「李」という姓ではなく「李」という氏なのである。
 
つまりは、文部省の言う二割の人々は、 「創氏改名」しなかったのではなく、「創氏改名」の申告をしなかったのである。
 
では「氏」と「姓」はいかなる違いがあるのか?
 
氏は家単位の呼称だが、姓は朝鮮古来からの男系血統を示す記号である。
 
大日本帝国は朝鮮から姓を奪ったのは事実である。
それは朝鮮の古法と伝統を捨てさせた事を意味している。
ために「日本は名を奪った」と言う非難が生じるのである。
 
<参考文献>
創氏改名の研究』(金英達著)
『 創氏改名 日本の朝鮮支配の中で』 (水野 直樹著)
 
 
 
 
これに関しては、蒲田沢一郎の『朝鮮新話』(創元社、1950年)という日記があります。
 
宇垣一成朝鮮総督の秘書だった鎌田沢一郎氏の「朝鮮新話」は、植民地朝鮮に於ける歴代総督在任中の施政について論評を加えています。鎌田氏の論調は宇垣以外に対してはあまり好意的ではなく、とりわけ7代目総督の南次郎に対しては辛辣に批判しています。
 
「南統治の中心をなすものは、鮮満一如と内鮮一体であり、朝鮮人の皇国臣民化であつた。鮮満一如といふのがすでに頗る侵略的表現であり、事実当時の関東軍第四課と連絡して、各種の問題で朝鮮の軍国化を図つて行つたのである。
内鮮一体のスローガン実施に当つて、もつとも大きい失政は、世に有名なる創氏と国語常用の問題だ。即ち朝鮮人に日本の姓を与え、加藤清正とか石川五右衛門とか名乗らせることだ。名は体を現はすことなるが故に、日本名を名乗らせて、その中味をも、完全な日本人にしようといふことであつた。
もつともそのころは、日華事変から太平洋戦争へ引きつづく重大時期で、国家意識は昂揚され、軍国主義が高調される段階であつて、朝鮮人の中にも、創氏改名を希望する者も相当あつた。そのころ著者が外遊中に於ても、欧州やアメリカで滞在する朝鮮人、中国人の多くは、大抵日本名を名乗り、日本人と称してゐた。ホテルレジスターなどで、意外な日本名が記録されてゐることを発見することなどしばしばであつたのだ。
然るに南はそれを全鮮に強制した。各地にいろいろの悲喜劇が発生した。裁判所などで終日被告控室で待ち続け遂に呼出しがない。しかるに判決は欠席裁判で有罪となつて居る。段々聞けば裁判所は創氏の日本名で呼ぶのだが、本来その名は自分が改名したものでなくて、面長や駐在所の巡査などが勝手に改めて、夫々登録されたものであるから、本人は全く知らなかつたり、又うつかり忘れて了ふところから起きる喜劇であつた。
悲劇は至るところで発生し、それが猛烈な反日思想に発展し、対日非協力の地下運動になつて行つた。その一例に全羅北道高敞郡に薜鎭永といふ中地主の奮家があつた。主人は実に真面目な愛国者で戦争が段々と進んで軍糧米が次第に不足になつて来たころ、自家の一年分の小作米全部二千石を献納して、朝鮮軍司令部をあつと驚かせた。一年分の小作米収入がなくとも、どうやら税金と小使銭は若干の貯金で賄へるから、お国の為になつて真裸身になつて御奉公したいといふ奇特な申出であつたのだ。
その特志家の家へも、御多分に洩れずに、ぜひ創氏改名せよと面長や郡守から強制して来た。しかしこればかりは許して貰ひたいといつてどうしても肯かない。それは挑戦の大家族主義は系譜を非常に尊重する。特にこの薜鎭永の家は奮家としての誇りがあつて、祖父から系譜を大切にせよ、名を汚すなと言はれてゐた。だから整然たる系譜をもつこの家名だけは残しておきたいから諒承を乞ふ、決して反日感情のためではない。愛国者として人後に落ちないことはすでに皆さん御承知の通りなのですと、実に筋道の通つた話なのだ。
ところがこの薜家が改名しなければ、その附近の村落全部に於て一人として改名するものがない。焦つた當局はその愛児の通ふ小学校の教員を動員して、創氏しなければ学校の進級をとめるぞと脅迫したものだ。子供は泣く泣く帰宅して、之を父に訴へぜひ創氏して欲しい、それでなければ学校へゆけないとせがまれて、薜鎭永氏は子供可愛さに遂に決心し、翌日面事務所へ行つて、創氏改名の手続きを完全に済ませ、学校へも届けて子供を喜ばせた上、その翌日、石を抱いて井戸に沈み祖先への申譚を死によつて果したのであつた。
その話を著者にした全北知事の孫永穆は、両眼から涙をぽたぽた落とし乍ら、非圧迫民族の悲痛さを嘆いたが、彼は最後まで創氏改名をしなかつた。慶北知事の金大羽もさうであつた。
もう一つ国語常用を強制した。ついうっかり朝鮮語を喋舌つて落第し、朝鮮人教員が家庭から電話がかかり先方が老人で日本語がわからぬため、朝鮮語を使つてゐたのを、校長に聞き咎められて、早速左遷されたりした。そして朝鮮語を使ふものは、皆反日とされ、戦争非協力者の烙印を押されるといふ有様であり、五千年の歴史を誇る民族にかかることを強ひることが、如何に拙劣な結果を産むかといふことについての心遣ひなど片鱗もなかつた」(「朝鮮新話」P-318~320)
 
この逸話は、「韓国の有名な歴史書」である文定昌「軍国日本朝鮮強占三十六年史」下巻に引用され、「さらにそこから孫引きされるかたちで史実として」広まったそうです(金英達・著、未来社創氏改名の研究」P-128)。
さらに1982年、薜鎭永は「独立有功者」として「大統領表彰」を「追叙」され、1991年には「愛国章」が「追叙」されました。彼の地元の「淳昌」では功績碑が立てられ、学校教育用の「郷土教本」に「死をもって民族の魂を守った義兵闘士・薜鎭永」と大きく取り上げられるようになったそうです(同上P-131~132)。さらに幼少を朝鮮で過ごした梶山秀之という人がこの話をヒントに「族譜」という小説を書き、そして韓国で映画化されました。