戦記,日誌、日記本 から見た軍慰安婦

朝鮮人慰安婦が出てくる戦記,日誌、日記本


     1、慰安婦が出てくる戦記,日誌、日記本

1931年、満州事変において中国東北部を侵略して行った関東軍は、翌年には上海に戦闘を拡大し、この上海の地で初めて、軍慰安所を設置した。やがて軍慰安婦は、軍のいるあらゆる場所に見られるようになった。
1937年、日本は中国に対する全面的な侵略を開始した。派遣された兵力80万人。そして占領した各地に軍慰安所を設置する。さらに1941年から始まった太平洋戦争において初期に占領した各所にも軍慰安所を設置した。こうして膨大な数の慰安所が造られ、さらに膨大な軍慰安婦達がいたのである。

慰安婦について書いている戦記もの、日誌、日記、文学はゆうに100を超える。以下列挙する通りである。

フィリピン 
『悲劇の将軍』『戦記バタアン半島』『落日のマニラ』『最前線爆雷製造部隊』『ルソン戦とフィリピン人』『比島軍医戦記』『山中放浪』『虜人日記』『ミンダナオ島敗戦記』『敗兵』『回想のフィリピン戦線』
・・・以下多数

ミャンマー 
ビルマ日記』『戦場と記者』『外科医戦場物語』『軍政』『ビルマの地獄戦』『最悪の戦場に奇跡は無かった』『一下士官ビルマ戦記』『インパールの十字架』『狂風インパール最前線』・・・以下多数

ボルネオ、スマトラ、ジャワなど 
『ある陸軍予備士官の手記』『海軍報道戦記』『セレベス戦記』『ぼくの大東亜戦争』『消灯ラッパと兵隊』『泣き虫軍医物語』『南海の青春』『証言・太平洋戦争』・・・以下多数

ニューブリテン、トラック、パラオなど 
『告白』『ガダルカナル』『ラバウルの落日』『自決命令』『玉砕戦の孤島に大義はなかった』『ブーゲンビル戦記』『南の空に下駄はいて』・・・以下多数

中国 
関東軍軍隊日記』『兵隊達の陸軍史』『どろんこの兵』『戦場と記者』『私の中国戦記』『憲兵余録』『ある日、赤紙がきて』『日本軍と戦った日本兵』『ある将校の敗戦日記』『悪兵』・・以下多数

その他のアジア各国 
『軍政』『戦場の狗』『敵・戦友・人間』『シンガポール収容所』『戦争の横顔』『南海のあけぼの』『インパールの十字架』『戦魂』『戦中派の遺言』『ラサ島守備隊記』・・・以下多数


慰安婦は圧倒的に朝鮮女性が多かった・・・
慰安婦にされた女性は、日本人、台湾人、韓国人、フィリピン人、インドネシア人、ベトナム人、マレー人、タイ人、ビルマ人、インド人、華人、オランダ人などであった。1940年10月の性病感染調査*によれば、朝鮮人が50パーセント以上を占めており、さらに「朝鮮人慰安婦」の記述は多くあり、 赤紙兵隊記』 が「・・・・いわいる「ピー」と呼ばれる女性達はほとんどが朝鮮娘であった」と証言しているように、全慰安婦の半数近くが朝鮮人慰安婦だったと言われている。
日本人慰安婦もいたが、その多くは元々売春婦達であった。未婚の日本女性を売春婦とするなら、日本軍に対する日本人の信頼が崩壊してしまう。そこで朝鮮人の未婚女性に目をつけたのである。

*性病感染=大本営陸軍部研究班「支那事変における軍規風紀の見地より観察せる性病について」1940,10防衛研究図書館所蔵)



      2、 朝鮮人慰安婦

100余の著作物の内、約30冊に朝鮮人慰安婦の記述が見られる。
以下、朝鮮人慰安婦について、いくつか抜き出してみよう。
彼女達の中には、家族を養う金のために身を売った者もいたのである。
しかし、そういう娘ばかりでは無い。
かなりの数の娘達が騙され、強制されて慰安婦にさせられたのであった。


『ルソン死闘記』 友清高志著 1973年

1942年の春、満ソ国境の近くの小城子という町で独立守備中隊が駐屯し、軍専用慰安所があり、そこに「又春」と言う名の朝鮮人慰安婦がいたという。

朝鮮人慰安婦の数が多かった事を鈴木俊雄氏といまいげんじ氏は述べている。

『回想のフィリピン戦線』 鈴木俊雄著 1979 軍医

別棟の建物へと入るとベットが6,7台のカーテンで仕切られている。他の外地では朝鮮人が使われていたようだが、ここでは全部比女性だ。


赤紙兵隊記』 いまいげんじ著 1987  他の著作 『シベリヤの歌』

・・・・いわいる「ピー」と呼ばれる女性達はほとんどが朝鮮娘であった。


では、彼女達はどのように集められたのだろう?
慰安婦徴集に関して記録しているものも多い。彼女達は多く、騙されて軍慰安婦にさせられたのであった。


 
 『戦魂』 直井正武著 俳人 1973

ここの朝鮮人婦人たちがどうした経由でやって来たかは知らないが、狩り出されたということだけは否めないだろう。もっとも、日本人娼妓も高級用として渡ってきてはいたが━。

関東軍軍隊日記』 長尾和郎著 1968

東満の東寧の町にも、朝鮮女性の施設が町はずれにあった。その数は知る由もなかったが、朝鮮女性ばかりではなく日本女性も・・・・・・三畳ぐらいの板の間にせんべい布団を敷き、その上に仰向けにいなった女性の姿・・・・・・・これらの朝鮮女性は「従軍慰安婦募集」の体裁のいい広告につられてかき集められたため、施設で≪営業≫するとは思ってもいなかったと言う。それが満州各地に送りこまれて、言わば兵士達の排泄処理の道具に身を落とす運命になった。・・・・・・

『兵隊達の陸軍史』 伊藤桂一著 1969

・・・・・慰安婦の多くは騙されて連れてこられたのである。

支那の著者のいた駐屯地には、兵員600に対して朝鮮人慰安婦が4人いた。

さらに騙して連れて来た後で、強制がなされた・・と伊藤桂一氏は書いている。

『戦旅の手帳』 伊藤桂一著 1986 直木賞作家 『落日の戦場』『静かなノモンハン』などの作品あり

敗戦によって軍票が無価値になったため、只奉公をした事になる。戦争の最大の被害者は戦場慰安婦であり、かつ彼女達の功績も黙殺できない、従って慰安婦の忠魂碑も建てるべきだ、と書いたことがある。

騙すのは、看護婦にする、と言うのと、食堂の給仕する、というのと、つまり肉体供与を条件とせず連れて行って、現場についたら因果を含めたものである。逃げる方法はない。

蕪湖で、私は有利な有利なポストにいた関係上、なんとなしに朝鮮人慰安婦たちの相談役みたいな仕事?をしていて、・・・・・20人ほどいる女の中で気質の悪いのはいなかった。

その徴集において、警察や村長が圧力をかけ、抵抗むなしく人買のトラックに乗せられたと言うような事があったのだと言う。


『ある日赤紙が来て』 真鍋元之著  1981

1942年頃、平陽鎮の軍専用慰安所
つねに満員だったと言う。

「私の馴染んだ慰安婦は、職業用の日本名をミサオと呼んでいた。生家は江原道のもっとも貧しい農家だったが、ある日突然村長がやってきて「軍の命令だ。お国への御奉公に、娘を差し出せ」という。御奉公の意味がすぐに分かったので、父母は手を合わせ声の限りに哀号を繰り返したが、村長は耳を貸さない。この面(村)へ8名の割り当てが来たが、面には娘は5人しかいないから、ひとりも容赦はならぬ、とニベもなく言い放つ。村長の背後では、刀を吊った日本人の巡査(警官)が、肩をそびやかせている。5名の村娘が、石ころのようにトラックに乗せられ、村境の土橋を渡ったのが、故郷との別れであった。文字が書けないので、家族の安否を、手紙で問い合わせる事もできない。・・・」

その戦地でさえ、差別されていた

『戦中派の遺言』 戦中の会編  1979    

1942~43 のラバウル

日本の女性と朝鮮の女性とは、待遇から料金まで、あらゆるところに差別がありました。例えば・・・兵隊さん相手のは、日本人で3円、朝鮮女性は2円か1円50銭でした。

米軍の捕虜になった方が幸福であった

『生ある限りルソンへ』 磯崎隆子著 1984

<敗戦直後の捕虜収容所にて>
私達のテントに朝鮮人女性が二人いた。日本軍の慰安婦をしていたと言う。早い時期に捕虜になったので血色もよく、服装も派手で可愛い顔をしていた。


自由主義史観研究会は今日まで、これらの戦記,日誌、日記本 をまるで無視して来た。司馬遼太郎さえも捨ててしまった彼らにとって、当時の戦記,日誌、日記本 は邪魔なものでしか無い。
しかし、当時の体験を語った戦記,日誌、日記本 を紐解くなら、真実は明らかである。

少なくとも、全員が望んで慰安婦になった訳ではなく、騙し、強制して慰安婦にさせられていた人もいたのである。90年代の慰安婦訴訟の多くの証言者が、「騙された事」や「暴力的に強制された事」を証言している。我々はその声に謙虚に耳を傾けるべきであろう。

以上、列記した戦記,日誌、日記本 が全て、90年代に始まった従軍慰安婦論争とは無関係に、それよりもはるか以前に書かれている事を付け加えておく