軍慰安婦・・・続き

慰安婦を募集する際には、いろんなケースが考えられる。
戦記、日記本でよく見られるのは、騙されたケースである。
騙して戦地に連れて行かれた後では逃げられない。ゆえに強制はそこでなされる。
第一に、日本軍には、日本軍の命令によって慰安婦を集めた・・・と言う責任がある
第二に、軍の命令で騙したわけでは無いが、軍はそのような女性を保護し送り返そうとしなかった責任がある。
ごくまれに、送り返してもらえる女性もいたが、それは担当した者が良心的であった場合である。たいていは逃げられず、連日複数人数の相手をさせられる場合が多い。
 
 
 『憲友』 八一号の井上源吉  憲兵曹長(中支憲兵隊)

一九四四年六月、漢口へ転勤、慰安所街の積慶里で、以前に南昌で旅館をやっていた旧知の安某という朝鮮人経営者から聞いた内幕話。「この店をやっていた私の友人が帰郷するので、二年前に働いていた女たちを居抜きの形で譲り受けた。女たちの稼ぎがいいので雇入れたとき、親たちに払った三百-五百円の前借金も一、二年で完済して、貯金がたまると在留邦人と結婚したり、帰国してしまうので女の後釜を補充するのが最大の悩みの種です。 そこで、一年に一、二度は故郷へ女を見つけに帰るのが大仕事です。私の場合は例の友人が集めてくれるのでよいですが、よい連絡先を持たぬ人は悪どい手を打っているらしい。軍命と称したり部隊名をかたったりする女衒が暗躍しているようです」

女性を集める際に軍命と称したり部隊名をかたったりする悪徳業者もいたようです。
 

  『憲兵下士官』  鈴木卓四郎  1974   憲兵曹長(南支・南寧憲兵隊)

内 容  一九四〇年の夏の南寧占領後に<陸軍慰安所北江郷>と看板をかかげた民家改造の粗末な慰安所を毎日のように巡察した。十数人の若い朝鮮人酌婦をかかえた経営者黄は、<田舎の小学校の先生を思わせる青年>で、地主の二男坊で小作人の娘たちをつれて渡航してきたとのこと。契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂とのことだったが、<兄さん>としたう若い子に売春を強いねばならぬ責任を深く感じているようだった。
 
 
『南海のあけぼの』  総山孝雄   少尉(近衛師団

 <シンガポールでの体験> 一九四二年、軍司令部の後方係りが、早速住民の間に慰安婦を募集した。すると、今まで英軍を相手にしていた女性が次々と応募し、あっという間に予定数を越えて係員を驚かせた・・・・・・トラックで慰安所へ輸送される時にも、行き交う日本兵に車上から華やかに手を振って愛嬌を振りまいていた。
 
自発的に応募した娼婦達だが・・・・・・
この話には後日談がある

 
従軍慰安婦』 吉見義明  
 
「しかし、この女性たちは、一日に一人ぐらい相手をすればよいと思っていたのに、兵隊が列をつくって押し寄せたのに悲鳴をあげた。そこで、四、五人を相手にしたところで、担当の兵士が打ち切ろうとしたところ、騒然となったので、やむをえず『女性の手足を寝台にしばりつけ』てつづけさせたということを兵士から聞いている。このような強制もあったのである。」(P.121~122)
 
これは、集める時には、≪募集≫だが、やる時には縛り付けた強制だったと言う事だ

 
  「俘虜記」  大岡昇平   1967
 
彼(富永)はセブの山中で初めて女を知っていた。部隊と行動を共にした従軍看護婦が兵達を慰安した。一人の将校に独占されていた婦長が、進んでいい出したのだそうである。 彼女達は職業的慰安婦ほどひどい条件ではないが、一日に一人ずつ兵を相手にすることを強制された。山中の士気の維持が口実であった。応じなければ食糧が与えられないのである。
 
食べ物を与えない・・・という強制
 
 
『ある軍属の物語』  河東三郎  1992  (海軍軍属設営隊員)

 一九四三年秋、(ニコバル島に)内地から慰安婦が四人来たというニュースが入り、ある日、班長から慰安券と鉄カブト(サック)と消毒薬が渡され、集団で老夫婦の経営する慰安所へ行った。 順番を待ち入った四号室の女は美人で、二十二、三歳に見えた。あとで聞いたが、戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされ、わかって彼女らは泣きわめいたという。
戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされた女性のケース・・・・このケースが多いように思う
「看護婦」「賄い係」などの文句で騙されたのである。
そして奴隷のように扱われた。
日本軍には、「人権」という概念が乏しかった。それは、攻撃力はあっても防御力が乏しいゼロ戦の構造を見ても分かる。
ある捕虜になった米軍兵士は、その待遇があまりにひどいので「捕虜の虐待である」と文句を言った。しかし、しばらくして考えを改めた。なぜなら、下級兵士達も彼らと同じ待遇を受けていたからだ。つまり日本軍の兵士達は「虐待を受けた捕虜」のような扱いを受けていたのである。
ろくなものを食べさせてもらえず、簡単に殴られていた。
兵士は捕虜である。
 
明治憲法には一応の「人権」が謳われていた。
しかし、「不敬罪」などの法律は、この「人権」を単なる建前にしてしまった。「不敬罪」を取り締まる特高思想警察の拷問には、人権意識など微塵も見られない。普通選挙が行われた頃、同時に治安維持法が制定され特高の活動は活発になる。そしてこの特高と連動した軍が国の主導権を握ると「人権」などと言うものは、完全に忘れ去られた。「一億玉砕」とは何たる詭弁であろう!!