〔女子挺身隊〕の真相にせまる

1933年から1945年の敗戦までの12年間になされた事 シリーズ

            テーマ:教科書では教えない日本の本当の歴史



まずはこれを読んでもらおう。

 



通信教育隊 1992年73才

黒龍江省富錦で一人の朝鮮人慰安婦から聞いたもので、「『関東軍戦時特別挺身隊』という事でしたが、実際に来てみたら慰安婦だったと言って泣いておりました。・・・・朝鮮人女性は、京城の駅に2000人が集められ、列車に乗せられて、満州の新京に下ろされました。そこで、20人から30人に分けられ、また列車に乗せられ、各地に送られて行きました。

 



これは、「慰安婦110番」に報告された軍慰安婦の話だが、ここで、「朝鮮人女性が集団で『関東軍戦時特別挺身隊』という名目で集められ、慰安婦として働かされた」と言う証言がなされている。

この話は次の島田俊彦氏の話と矛盾しない。

 




関東軍━在満陸軍の独走』 島田俊彦著 1965

中公新書 P176 

41年の関東軍特別演習に際して、関東軍参謀原善四郎中佐は軍慰安婦2万人が必要と計算し、朝鮮側に割り当てたが、実際には8000人が集められた、と言う。




さらに長尾和郎氏の以下の証言とも、おおむね一致している。


関東軍軍隊日記』 長尾和郎著 1968

東満の東寧の町にも、朝鮮女性の施設が町はずれにあった。その数は知る由もなかったが、朝鮮女性ばかりではなく日本女性も・・・・・・三畳ぐらいの板の間にせんべい布団を敷き、その上に仰向けにいなった女性の姿・・・・・・・これらの朝鮮女性は「従軍慰安婦募集」の体裁のいい広告につられてかき集められたため、施設で≪営業≫するとは思ってもいなかったと言う。それが満州各地に送りこまれて、言わば兵士達の排泄処理の道具に身を落とす運命になった。・・・・・




これらの証言から、いくつかの想定をする事ができる。

つまり関東軍慰安所を作る時、〔戦時特別挺身隊〕または〔軍慰安婦〕という名目で集めていたのではないか?・・・・と言う事である。

今でこそ「慰安婦」と言えば肉体提供を意味しているが、字義どおりに取れば 〔軍慰安婦〕という言葉は、単に”軍を慰安する”という意味しかない。
そこで、〔戦時特別挺身隊〕または〔軍慰安婦〕の名目でなされた、この徴集に参加した女性達が多くいたのであろう。

こうして集められ送られた朝鮮女性達は、各地に送られ強制的に性を提供させられるのである。

ところでこの〔戦時特別挺身隊〕だが、この名目からして、これは関東軍が命じ、総督府警察と各面事務所(役場)が協力して集めたものと思われる。いわいる「業者が集めた慰安婦」とは異なる事になる。



1990年、韓国のハンギョレ新聞に伊貞玉梨花女子大教授によって、「挺身隊取材記」が連載された。
その冒頭でこのように書いている。


1944年12月、梨花女子専門学校一学年の時、日帝朝鮮半島の各地で未婚の若い女性を手あたりしだい挺身隊に狩り出した。そのため多くの学生が結婚するという名目で退学し始めた。あわてた学校当局は「学校が責任をもってあなたたちを守る」と言ったが、しばらく後、私たちは国家総動員令に応じるという書類にサインしなければならなかった。私は両親の言葉に従い、退学して挺身隊を免れたが、同世代の多くの乙女たちが日帝によって狩り出されていった




つまり、戦時下、伊貞玉梨花女子大教授の若い頃は、「日帝朝鮮半島の各地で未婚の若い女性を手あたりしだい挺身隊に狩り出した」という噂が流れていたのである。
この手の話は、同時代の韓国人から多く聞く事ができる。

しかし、日本においては 〔女子挺身隊〕 と言えば、工場などで働く勤労奉仕を意味していた。そこで日本の研究者は「韓国は〔女子挺身隊〕 と〔軍慰安婦〕を混同している。」と述べていたが、韓国では〔戦時特別挺身隊〕と〔軍慰安婦〕が、共に関東軍によって「慰安婦」として徴集された名目であったものと思われるのである。